チラシの裏に書く寝言

強引に こねてまとめて とりあえず焼いた

ラビット・ホール ー2023年4月22日の客席より

 

 

 

よく手入れされた芝生に、午後の日差しを浴びながらさらさらと降り注ぐ天気雨。
そんな情景が、この作品を観たあとに浮かんできました。
悲劇はすでに起こってしまった後。交通事故で幼い息子を失った夫婦、妻の妹と母親、それから加害者の学生、それぞれが自責の念と悲しみを抱えている中、この舞台上では劇的な展開はありません。
物語だけでなくそこにある音もとても密やか。時々静寂がキンと耳を打つと表現しても良いくらいで、食器を洗う音や会場の空調の音すらはっきり聞こえてきました。
だからこそ、私たちの生活と地続きにある飾らない言葉の数々や澄んだ光の粒がころがるような音楽が、じんわりと染み込んでくるような心地がしました。

 

 


同じ最愛の存在を亡くしたといっても、その悲しみ方は真逆。
おもちゃや服に絵、ダニーがいた証は家中に散らばっているのに本人だけはもういない。その事実を突きつけられるたびに辛くなってしまうベッカと、残されたモノすら自分の目の前から消えてしまう事に耐えられないハウイー。
これ、元々の気質もあるけれど、家での二人の役割も感じ方の違いを生む要因だったのかなと。
『買い出しに行くと何を見てもダニーのことを思い出すから嫌。ハウイーに行って欲しい』そう言ったベッカはお母さんになるためにキャリアも何もかも捨てた人。
そんな彼女の“お母さん”は、なんでも子供の好きなものや為になる事が第一で常に頭が子供の事でいっぱい、自分の事は後回しだしダニーと二人きりでいる時間も長くてとにかくずっとお母さんでいる。そんなかたちをしていたんじゃないかなと。
反対にハウイーの“父親”は、たまに早く帰れた日や休日に思いっきり遊んであげるような、もっと限定的な場所にあった気がして、彼が執着したビデオや子供部屋や手に取れる現物はそのかたちを取り戻す役割もあったように思えました。
スーパーでダニーが好きだったお菓子をみかければ二人とも足を止めるだろうしハウイーは微笑むかもしれない。でも彼が想いを馳せるのはそこまでで、野菜売り場に立ち尽くして、どうにかして栄養を取らせるためにこの野菜選んでたな...みたいなことを考えるのはベッカだけだと思うんです。
本人達が納得の上でそういう分担をしているならこのあり方に異を唱えるつもりはないですし、愛情の持ち方に差があるとも思わないけれど、そういう関わりかたの違いが同じ悲しみを持つはずの二人の溝を深めてしまっていたのかなと感じました。

 

 


最初はハウイーのことが怖かったんですよ。
事故以来友人とも疎遠になり物理的にも精神的にも内にこもっていくようなベッカとは対照的に、毎日仕事に行き、ダニーと同じぐらいの子供がいる友人と気まずくなることもなくスカッシュを楽しむハウイーは、いかにも合理的で割り切って前に進もうとしている人に見えました。
それ自体は必要な事ですし、このままじゃいけないと多少無理にでも相手の手を引くことが有効な時もあるけれど、何ヶ月も別々に過ごしていた夜を再び共にしようとするハウイーからは、口ではベッカのことを気にかけているようでいても自分がこの状況から脱却したいが為の強引さを感じました。同じように傷を負った状態で相手のケアをしろとは言わないけれど、自分と同様の行動を起こすことの出来ない頑ななベッカに対し明らかに苛立ちを覚えているのはいかがなものかと。
ダニーのビデオを誤って上書きしてしまったベッカに対して『君は潜在的にダニーの存在を消したがってる』そう激しく糾弾したのにも、何言ってるんだこいつは?と。滅茶苦茶な言いがかりでしかないじゃないかと呆れてしまいました。
それから犬を返して欲しいと主張した時。階段を上る途中で思い出したように投げかけられた言葉は静かだけど有無を言わさぬトーンで、目線の高いところからそんなこと言わないで欲しいとしか思えませんでした。

 

ちょっと話はそれるんですが、この場面で1幕目が終わる構成が好きでした。物凄く盛り上がるとか、これからどうなるの?という強い引きがあるわけではないけれど、読みかけの小説を閉じて情景を反芻しているときのような静かな余韻が感じられるのが良かったです。

 

 

 

ベッカとイジーの関係性は、大人同士にしてはやや踏み込みすぎなんじゃないかと思ったんです。
そう!思ったんですけど!!『あの子は寝るのが好きだから〜』とハウイーの話そっちのけで頭を抱えるベッカの、割と序盤のあのやり取りでもうこれ知ってるやつだ…と。
妹という存在に対し、いい大人なんだし大丈夫だろうと頭で理解していても、どうしても自分が“お姉ちゃん”である感覚が抜け切らずに過剰に心配したり手を出したりしそうになってしまうあの感じ。
シャワーカーテンを贈る動機が、イジーの趣味が大学生の男の子みたいだからというのにも首がもげる程頷いてしまいました。余計なお世話なのは承知の上で、「私の思うもっとセンスのいいモノ」を使わせたいという欲がむくむくと膨らんでやきもきするあの気持ち。そのくせはっきり趣味を否定すれば傷つけるかもと色々考えてしまって、気に入らなかったら返品していいなんて突然控えめになっちゃうんですよね。
今回、台詞を翻訳する際に普段使っているようなリアルな言葉で表現することに力を入れていたらしく、その耳馴染みのよすぎる言葉や間の取り方から立ち上がる距離感も妙に身に覚えのあるもので観ていてずっとそわそわそわそわしてしまいました。

 

 

 

ジーはイジーでベッカの事がとても大事なので、せっかくもらった全然趣味じゃないシャワーカーテンを律儀に使う姿が想像できてちょっぴり微笑ましい気持ちになりました。
友達が見たという、ハウイーと見知らぬ女性がレストランで手を握る場面。元々の疲れとイジーの要領を得ない話に苛立つハウイーに『私はベッカの妹だから聞いておかなくちゃ』と果敢に話し続ける様子に、彼女の姉想いさが特に出ていたと思います。
正直、歳上で姉のパートナーで社会的な立場も明らかに自分より上の人間に強く出るのは二の足を踏むと思うんですけど、そんなことよりもお姉ちゃんのためになることだけに意識が行っている様子が健気だなと思いましたし、決着はつけられなかったけれど、『実際ハウイーチップケチったらしいよ』と捨て台詞を吐いてハウイーの言いくるめようとするような無意識の高慢さに一矢報いてやっていたのにはスカッとしました。
ずいぶんと子供っぽくて、だけど確実にパンチの効いたカウンターだったと思います。そして折角問い詰めたけれど、この話をイジーはベッカにしないと思うんです。色々と言動の危なっかしい彼女だけれど、この話題でベッカが傷ついたり怒ったりする事が今は適切なタイミングじゃないということもその嗅覚で感じ取っていると思うので。きっと最後の切り札にしたんじゃないかなと。

 

空間としてもリビングの真ん中に緩く美しいカーブを描く白く軽やかな階段を配して程よく抜けを作ったり、上の可愛らしい捨て台詞のように、わりと深刻な話をしている中にもフッと力を抜いて笑ってしまうようなやり取りが自然に溶け込んでいたりして、全体を通して緊張感で息苦しくなり過ぎないところも好きでした。
息子を亡くしたばかりのナットを毎日訪ねてただ居座る知人が“慰めてる自分が好き”なだけだと気づいてついに怒鳴りつけてしまった話も、やっちまったの!?と言わんばかりに目を見開くベッカとイジーのリアクションと客席の空気が一致していて面白かったです。

 

この話の前に、ベッカもスーパーでトラブルになって相手を殴ってしまっているし(この時のイジーの驚きと野次馬根性と自分も殴ってるじゃん!?が綯い交ぜになって興奮を隠せない『殴った!???』もツボでした)
自分からふっかけたわけでは無いにせよイジーもBARで喧嘩して暴力沙汰になっているし、それぞれのエピソードに何かとても意図を感じるというかなんというか...みんな親子だよこの女性たち…と思ってちょっと可笑しくなってしまいました。
自分の行いに酷く落ち込んでいるベッカを『もし自分が正しくない事をしてたら殴って?』と慰めるイジーの口調がいつもの舌っ足らずな幼いトーンでなくてベッカの口ぶりにそっくりでああ姉妹だな…と。こうやっていつもベッカがイジーのこと宥めたり諭したりしてたのだろうなと思いました。

 

 

 

なんだかんだで寄り添いあえる姉妹よりも、母子の関係はもっとぎこちないものに見えました。
元々そこまで上手く噛み合う性格ではなさそうですし、ベッカからすればナットが亡くしたのは自分の“お兄ちゃん“でしかもアル中だかヤク中だかで自死した人なので、ナットがいくら共感を示しても一緒にされたくないと拒絶したくなる気持ちも一理あるのかなと。
けれどどちらも我が子を失った母親に変わりはなくて、そこを繋いだのがナットの『悲しみはなくならないけど、押しつぶされそうだったものから這い出ることが出来る。持ち上げられるようになる、レンガみたいになってポケットに入れて持ち運べるようになる。時々は忘れる。でも触るとそこにある』という台詞だったように思いました。
わりと奔放な口ぶりの多かったナットが自分の哀しみを撫でるように、そしてベッカにもそうなってほしいと願うかのように一つ一つ言葉を紡いでいて、ようやく二人が痛みを共有できることを認識できたようなやさしい瞬間でした。

 

 

 

ジェイソンは端から見れば事故を起こしたなんて思えないようなごくごく普通の青年だけれど、その行動は随分と突拍子もなくて驚きました。
オープンハウスに便乗して遺族の目の前にしれっと現れて、明らかに歓迎されてない空気のなか飄々としていられるのは流石にどういう神経なんだと思われてもしょうがないのかなと。おそらくカウンセリングか何かの一環で書いたらしきベッカ宛の手紙も、(笑)とかダニーの事知れて良かったとか妙な距離感でしたし。でも冷静に考えれば自分の乗っている車が子供を跳ねてしまって普通の神経でいられる方がおかしいんですよね。それにまだこういう事態に対応できるような大人でもないので、ブレーキが切れてしまったような行動も仕方がないのかも。

それでも『ほんの少しだけスピードを出しすぎていたかもしれない』とわざわざ伝えにきたのはきっと彼の中でそれが必要なことで、それにとても勇気のいることだったんじゃないかと思うし、この一言があるかないかでジェイソンへの印象はだいぶ違うものになっていた気がします。

 

 

 

結果、ベッカには事故の当事者であるジェイソンとの対話が必要だった訳だけれど、きっとそれは他の人には理解されないことで、どうして必要だったかおそらくベッカにもわからないのだと思います。
一回一回ケーキを切る度にペーパーナプキンでナイフを拭ったり人知れずワインボトルの雫を拭き取ったりする几帳面さ、見るからにキチンと手順を踏んで作られたお菓子、バッサリと仕事を諦めて子育てと家事に専念した事や、事故以来疎遠になってしまった友人には『向こうから電話してくるべき』イジーには『大人げない行動は卒業すべき』など、ベッカは自分に対しても他人に対しても“こうあらねば”という意識がとても強いように思えました。
だからグループ療法だと周りと同じように悲しめない自分への怒りも出てしまって、役に立たなかったのかなとか。

 

またまた話がそれますが、ベッカの時折見せていた平然を装った風から徐々にギアが上がって周りを一切遮断するかの如く一心に捲し立てる、自分を責めているようでいて相手を詰める話し方や、別に誰が悪いわけでもないのは理解しているけれど自分の動揺をわかって欲しくて遠回しに露わにされる不快感、他にも堰を切ったように泣き出し鼻をかむしぐさなどには観ているこちらにもその感覚を瞬時に思い起こさせるリアルさを感じたのですが、それでいて宮澤さんのお芝居からはドギツい感じがしなくて、まるでやわらかなベールを被せたような上品さがあってとても好きでした。

 

 

 

悲しみへの向き合い方が違いすぎる故に衝突するベッカとハウイーに、そこまで擦り減るくらいならならいっそ別れてしまえば楽なのでは?と考えていたけれど、ラストで強く手を握りあった彼らはまだ不安そうだけれど"二人"で前を向く方法を探し始めたように見えて、それは彼らに必要な事に思えて、それまでの自分の短絡的思考を反省しました。
きっと、この二人は大丈夫で、このまますすんでゆけるのだと思います。

 

 

 

 

 

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ラビット・ホール
東京公演
PARCO劇場

2023年4月9日(日) ~ 2023年4月25日(火)

PARCO劇場 | ラビット・ホール | PARCO STAGE -パルコステージ-