チラシの裏に書く寝言

強引に こねてまとめて とりあえず焼いた

ねじまき鳥クロニクル ー11月11日と21日の客席より

 

 

 

元々一度きりの観劇の予定でしたが、終演後には「今すぐにでもまたあの世界にどっぷりと浸かりたい!」という思いが止まらなくなり急遽予定をこじ開けチケットを追加しました。
浮遊感溢れる身体表現と美しくも躍動的な音楽、精巧な仕掛け絵本にありったけの油絵具をぶちまけて造られたような鮮やかで不可思議な空間によって具現化された、人間の意識の底の底にあるような仄暗く混沌とした情景にただただ圧倒され、大人しく座って頭を使いながら舞台を「観た」というより全力で「浴びた」「巻き込まれた」感覚を強く持ちました。

 

原作未読で挑んだことや作品自体が抽象度の高い表現で構築されていたこと、観ながら意味を探るよりもただ目の前にある美しさに溺れたい気持ちが強かった事から、今回は物語や登場人物の心情に関してよりも美術的な感想が多め…だと思います。(専門的な事は何も言えませんが)
といいつつ、どうしても引っかかってしまったこの表現苦手かも…という部分があるので最後の方で少し内容にも触れています。あまりまとまっていませんが、大丈夫そうならどうぞ。

 

 

 

視覚的な面で特に印象に残ったのが舞台上を彩る照明の色合いで、こんなに繊細で有機的な色が表現できるんだと場面が変わるたびにうっとりしていました。
ミニマルな家具と、綿密に組まれた自在に動く壁が中心となってつくられるシンプルな空間にあれだけ自由に様々な場面が現れては消えていったのは、その照明とそこに生まれる影の力も大きかったのかなと。
トオルとクミコが過ごすリビング、壁やドアや時計の幾何学的な線と、素っ気ない灰色の壁に霞がかった紫と青が滲む様子になんとなくパウル・クレーの絵画が浮かんできました。具体的にどの作品って訳ではないんですけど。
ドアと冷蔵庫の色自体が他よりワントーン明るいのかと思ったら、その場所へ重ねるように照明が当てられていることに気づいて、あんなにピンポイントで鋭利に照らせるんだ。というのもおどろきでした。
トオルとノボルが待ち合わせをしたオークションの場面の赤とオレンジも、一口だけ齧ったプラムみたいで美味しそうだな...と思いながら眺めていました。

 

間宮が戦争の惨劇を語る場面は逆にそれらの色合いを大胆に潰してしまっていて、それもまた面白いなと。
暗闇や影が主体と言いますか「スポットライトなどで照らされてポイント的に光が現れる」のではなく「舞台がざっくり切り取られ僅かに残ったもの」として照明を認識するのは珍しい気がしました。
天井高く吊るされたペンダントライトが舞台上の人々によってあちらこちらと揺らされるたびに大部分が蠢く暗闇に包まれ、残った光にも亡霊のように現れた軍服姿の男達の影が不気味な影を映し出す。その心許無さはまさしく間宮の孤独で先の見えない任務そのもののようで、芝居や“特に踊る”方々のダンスと同じぐらい雄弁に残酷な情景を描いていたと思います。

 

たくさんの“クミコとクレタたち”のダンスから流れるように繋がるこの場面、音楽も間宮の登場まで一続きになっていて、最初は彼女たちと一緒に揺れたくなる曲だなという印象の方が強かったのですが、彼の過去を知った二度目の観劇時にはなんだか軍隊の行進曲のようにも聴こえました。

 

手書きのショートアニメのような奇妙でぬるぬるとした表現が生身の人間によって行われていたのも観ていて非常に楽しかったです。
二人のトオルの独白。クミコへの疑惑を危機感の欠片もないままにぐるぐるぼそぼそと言葉にするその熱量の低さとは裏腹に動きはみるからにハードで、絡み合うように持ち上げられながらじわりと回転したりナメクジの交尾みたい...とか思ってしまったけれど、彼らは元々同一の個体なので官能的な雰囲気がある訳でもなく。ただ淡々と、異常すぎる普通の状態で平然と台詞が口から流れていき、こういう日常の中に突然現実離れした浮遊感や不安を感じることって映像で特殊な処理をしなくてもできるんだ!と思いました。
クレタが病的に痛みに過敏だった過去を歌う場面でソファの隙間からずるりずるりと出てくる人、人、人。クレタを痛みとともに覆い尽くすように蠢く人々のその現れ方も、もしここから何か出てきたら?という想像はするけれど普通なら絶対あり得ないことが具現化されていてぞわぞわしました。

 

トオルとメイがプールサイドにちょこんと腰かけて会話を交わす場面、塩素の匂いのしそうな静かで青い空間に、水圧を感じながらゆったりと漂う人たちの水着と水泳帽の赤が可愛らしい差し色になっていて、そのままポストカードにして手元に置いておきたかったです。
マルタとトオルが初めて会った場面も、余白をたっぷり取ったなか上方に唐突にくり抜かれた壁の向こうでじっとお茶をする二人と、その手前でお洒落な音楽に合わせてエアー犬(?)の散歩をするハットとコート姿のちょっと怪しい人たちのダンスが繰り広げられるシュールな絵面が好きでした。
最初は散歩だと気づかなかったのですが、そう言われてからみると確かに犬同士がお近づきになってる時の待機してる飼い主たちみたいな振りなんかもあったり、ドアを開けたら木枯らしが吹き付け犬が宙を舞って飛ばされそうになってしまったり「ナニかいる」量感がありましたね。
次々とプールで泳いでは上がっていく人たちも強風の中犬と一緒に出かける人たちも、描写しなくても成立する情景ではあるけれど、そこをしっかりと作り込んで前面に持ってきているところが贅沢だなと思いました。

 

ナツメグ、シナモンの親子が登場する場面も好きでした。
謎がどんどん絡まっていき、不可思議な闇にでも取り込まれてしまいそうなじりじりとした緊張感漂う世界で、あの黄緑色の石を透かしてみたような静謐なホテルの中…というかもっと限定してこの親子の周りだけは、もうひとつ奥の階層の柔らかい殻のなかにあるようだったなと。
ナツメグの言葉には強い感情がこもっていても常に奥に慈しむような包容力が感じられて、シナモンもそれに応えているように感じられたからでしょうか。
あの謎の大きな生き物!(どうやらヘラジカがモチーフらしいですね)穏やかなのにどこか艶かしくて人工物のような気配もある不思議な手触りがツボで、ゆったりと奥から歩いて来た時点でなんか好きなの来た!とガン見してしまったんですけど、ふと振り返って目の前に見慣れない生物を認め訝しげに目を見開いたシナモンをみてそりゃそうなるよね…と。でもその後ナツメグが動じておらずむしろ促すような笑みを向けたことを確認し恐る恐るヘラジカに手を伸ばす様子に、他の登場人物にはない優しい手触りの関係性を見た気がします。
哀しい物語のはずなのに、銀粉蝶さん演じるナツメグの歌声は力強い太陽の匂いがするようでした。

 

そう、この作品、“演じる・歌う・踊る”方々の声も世界観を表すのに重要視されていた気がします。
特に現実世界のトオルを演じる渡辺さんのハスキーな歌声が鮮烈で、彼が歌うとザーッと空気が変わって楽曲の音も相まり土砂降りの雨の中にいるような感覚でした。この作品の一部として成立しているはずなのにちょっとだけ毛色が違う雰囲気が、個性的な登場人物たちの中で、普通っぽさや能動的でない姿勢を持つゆえに逆に浮いていたトオルの異物感を際立たせているようでとても良かったです。
他にも、突如現れては消えていく顔のない男を演じた松岡さんの、掴みどころの無い煙のように揺らめく深い声や、無邪気な愛らしさを持ったメイを演じる門脇さんのコロコロと転がるような声、無自覚なのかピンと張り詰めた音で観ているこちらにまで焦燥感を覚えさせるようなクミコを演じた成田さんの、その緊張感とは相反するどこか幼い響きを残す声が印象的でした。

 

 

 

2度観ても、視覚的に美しくて音楽も綺麗でわくわくするような感動が薄れる事はなかったのですが、少し物語を追う余裕ができた分、結局この話は暴力を暴力で制圧したけれどそこに解決はあったのだろうか…?という疑問が湧き上がりました。
その理性も何も無くなってしまったようなめっためたの暴力を振るったのは精神的な存在の方のトオルで、彼は2幕で物事に対してやや自発的に向かっていっていたけれど、肝心の現実を生きるトオルは終止安全な場所でふわふわしていたらいつの間にか問題が終結してしまいました。めでたし。と、取れなくもないんじゃないのかなとか。
結局は一人の人間の筈ですし、たしかナツメグが、ここにいたら戻れなくなってしまうといったような事を忠告していたので、精神的な方がリスクを負う=現実の方もダメージを覚悟していたのかもしれないけれどそこまではっきりとは描いていなかったと思いますし。
そして現実世界で理不尽と戦ったクミコだけが法で裁かれてしまうのか…と。その顛末と彼女が塀の向こうに行ってでも静かに暮らしたい旨を、トオルが自分に懐いている少女にやたら親密な距離感をもって呑気に報告するのも腑に落ちないなと感じるところでした。

 

メイという女の子は、あの世界で現実を生きている存在の筈なのに誰よりも作り物な感じがしたんですよね。
どの場面をみてもびっくりするほど魅力的だったけれど、16歳よりももっと無防備に、冴えないトオルの元へ何故か子猫のようにするりと擦り寄って来たと思えば突然艶を帯びて低く潜めたミステリアスな声音と表情を見せてみたり、鬼の如く烈火の激情を迸らせたり、氷のような大人の女性の冷たさで突き放したり、また無邪気な少女に戻って澄みきった甘い手紙を送ってみたりとあまりも様々な顔を持ち合わせ過ぎていて、なんだか都合のいい幻想のようにも思えました。

 

たぶんこの辺は原作の価値観なのかなとも思うのですが、理不尽や暴力を表現する為に女性に性的な暴行を加えたり何かの比喩や儀式めかしたモノとしての性を描写するのに、作品の根底に女性が貞淑でないのは悪であるかのような空気が横たわっている気がして、そのうえ理想化した女性像までうっすらと透けてみえて、おまけに主人公は常に眠たげでぼんやりとただ流されたあげく振るった暴力は彼自身になんの影響も及ぼしていないように見える。これらを全てぐちゃぐちゃと混ぜ合わせた時の違和感を上手く表現できないのですが、なんだか飲みこみきれない具合の悪さのようなものを感じてしまいました。
ただ“彼女たち”という記号で呼びながらも体の性には拘らず“特に踊る”方々が出てきてガンガン踊っていたりして、文字情報だけだともっと拒否感が出てしまいそうな要素を視覚的な演出でできるだけ柔らかくみせようとする意図はあったのかなとか。
そして村上春樹氏のねじまき鳥クロニクルという原作だからこそ、この幻想的で素晴らしい舞台作品が生まれたとも思っているので複雑な心境でした。

 

クレタの「壊される」場面も、官能と暴力が綯い交ぜになった狂気的なダンスの迫力に圧倒され、台詞ではなくサックスの音色を金切り声のように鋭く響かせる演出に唸ると同時にちょっとしんどいな…と感じている自分もいて、それらの事を踏まえるといくら絵面が綺麗だからといって人に全力で勧めるのはやっぱり憚られるのかなと。
この作品を観て、そこまで過剰に反応するほどではないと感じる人も沢山いると思うんです。残虐な内容=美しくないという話でも無いですし。
でもおそらく私の中に何か許容できないラインがあって、芸術的な作品だからOKだと片付けたくなかったのだと思います。まだその曖昧な形をしっかりと見極められてはいないですし、だんだん芸術って何?みたいな話になりそうなのでこの辺で終わりにしますが。

 

目を見張るような美しさに見惚れていたはずなのに、いつの間にか普段意識していない自分の中の価値観を眼前にズルリと引き摺り出されて、呆然と見つめているような作品でした。

 

 

 

 

 

----------------------------------------------
ねじまき鳥クロニクル
東京公演
東京芸術劇場 プレイハウス

2023/11/07(火) ~ 2023/11/26(日)

舞台『ねじまき鳥クロニクル』|【公式】ホリプロステージ|チケット情報・販売・購入・予約

桜の園 ー8月19日の客席より

 

 

 

演出に関して好意的ではない感想を多く述べています。

それでも大丈夫だよ!という方のみご覧いただければ幸いです。




全体を通して面白いとかつまらないとか出来がどうとかを語る以前に、とにかく自分とは合わない作品だと感じました。

普段出先で一人でお酒を呑むことなんてまずないのに、このままだと耐えられないかもしれないと幕間にロビーのカフェに駆け込んでビールを流し込んでしまうほどで、そんなことをするなんて自分でも驚きでした。

それだけこの作品とどう対峙したら良いのか分からず困惑していたのだと思います。

どうして今回そこまで合わないと感じたのか、今後の自分のためにもできるだけサクッと言葉にして残しておけたらなと思います。




観ている間中ずっと、周波数の合わせどころが分からないなという気持ちが消えませんでした。

明らかに古典をオーソドックスに演る感じではないのだろうな、あえて壊して新しいものを作ろうという気概が感じられるなとは思いました。ただその先が私には見えてこない。

やたらと笑わせてくるけれど喜劇と受けとるには何か違うような気がして、真面目な中にもクスッとできる話…と品良く纏めるには過剰で、不条理的なシュールさを強調したいわけでもない?

どことなく雑然としていて、登場人物たちの話し方や間の取り方があらゆるカテゴリから1cmくらい浮いているような心地でした。

 

そのせいなのか、その時々の作品によって無意識に定めていた「こういうふうに観る」という気持ちの核みたいなものを持つことができませんでした。

話は理解できないけどとりあえず流れに乗ってみる、誰か一人の心情に心を寄せながら観る、登場人物の関係性に注目する、とにかく目の前の情景を楽しむ。

そういった土台が自分の中にない不安定な状態で更に集中力を切らす要因になってしまったのが現代風な台詞と演出です。

普段から聞き馴染みのあるような軽いトーンで台詞が話されていたかと思えば突然いかにも芝居ですといった時代がかった大仰な言い回しが飛び出してきたりして、あれ?となったり。

この登場人物は古典的な話し方をします!でもこっちの人は現代風です!といったようにその人の個性として一貫してくれれば全体としての統一感が無くても納得はできるけれど、同一人物内でも定まっていない印象だったので引っかかってしまって、その内容にまで意識が行かなくなってしまったんですよね。

 

視覚的な面でも随分と突飛な演出が多く、蝉の声が渦巻く中突然ビニールプールが現れたり、某ディスカウントショップで調達してきたかのようなキッチュな仮装で乱痴気騒ぎのパーティーが起こったり。

プールの場面は衣装もぐっとラフで現代的になって、まるで物語の軸から切り離した誰かの心象風景のよう。普段なら写実的でない表現手法に対してなにこれ!?と感じそこから考えを巡らせることに快感を覚えるタイプなのですが、既に小さな引っかかりが積もりに積もって喉に刺さった魚の小骨の如く嫌な主張をしてしまっていたので、あまりにも日本の夏を思わせる情景やコートを持ってきて欲しいという誰かの台詞にも過剰に反応してしまい、ここどこ!?暑いの!?寒いの!?っていうか今なんの話しているんだっけ???と疑問ばかりが脳を圧迫してしまいました。

 

まさか戯曲にそんな指定があるのかと思って一応この感想を書く前にざっと確認してみたのですが、少なくとも私が読んだ青空文庫のものにはそういった記述はありませんでした。

逆にお笑い要素で無理やり付け足したと思っていた、突然かき鳴らし歌い上げるギターや不意に貪りだすキュウリのくだりは元々あるものだと知って驚いてしまいましたが。でもそれも淡々と描写されていて、おそらく今回のオリジナルと思われる観客が予期していなかった派手な水着姿を役者に曝させて取る笑いと同等のテンションに仕立て上げる手腕はある意味凄い。

それと、あっちから出てきて言いたいこと言ってこっちに引っ込んでいく。みたいな噛み合わない言葉と人物が交錯し続けているなとは思っていたけれど、それも笑いのための要素の一つぐらいにしか思えていなかったので、登場人物たちの会話が思っていた以上に成立していないということにも戯曲を読むまで気づけませんでした。

真面目そうな話で笑わせにかかってくるなとは一切思いませんが、どうしてそういう作りにしたかったのか本当に汲み取ることができず、だんだん笑って良いのかどうかすらも分からなくなってしまいました。

 

そんなひねくれた私の気持ちとは反対に、この日の客席はストレートによく笑っていましたが、流石にパーティーの場面ではどこかついていけていないような困惑の空気があるように感じました。

これまた唐突な、クラブかの如く鳴り止まないビートと猥雑な照明、狂ったように踊り飛び跳ねる登場人物たち。そして誰か誰かパッと見で分かりづらいケバケバしい仮装のまま繰り広げられる普段通りの会話。

舞台上が盛り上がれば盛り上がるほど、おいてけぼりをくらったようで冷めてしまう私の気持ち。

PARCO劇場は横にちょっと広めなので全員で集まって騒いでも空間が余っている気がして、それもなおさらこの場面に対する空虚感を強めていました。

 

そしてもう一つどうして!?となってしまったのが突然ハンドマイクを使用して演説のように客席に語りかけていたことです。

特別そのような内容の台詞でもないのにまるでバラエティ番組で司会者が観覧席に向かって話しているようで、客席と舞台上の垣根を越えるためのものだったのか、単に装飾的な演出だったのかわかりませんが私にはノイズに感じてしまいました。




根本的に戯曲との相性が悪かった可能性もあるんですけどね。

どうして桜の園の住人達はロパーヒンにこれだけ力説されても短絡的で一時しのぎの手段しか取ることができず、だからといってこのまま朽ちていく覚悟もないのだろうとイライラしてしまいましたし。

明らかに屋敷を守る手を打たなかった自分が悪いのに買収された事にショックを受けて泣いているのは同情できず...それを描くことで何かを示したかったのかもしれませんが観劇中の私の思考はここで止まってしまいました。

この点について考え出すとだんだん卵が先か鶏が先かみたいな状態になってしまいそうなので今回は一旦置いておきますが…

 

桜の園の住人達がもっと前向きに行動していたなら、ロパーヒンはあの場所をすべて壊してしまうほどの強行はしなかったんじゃないかなと思いました。

出迎えの時だってあんなに嬉しそうに興奮して彼らを慕っている様子だったし、結構自分が土地を買収しても、『買ってやったぞ』と躍り出たわりにその笑顔は空虚で、代々農夫という搾取される側だった人間がついにこの土地で支配者として立つ喜びよりも虚しさが勝っているようでしたし。

ロパーヒンにとってもこの選択はベストではなくて、彼らがちゃんと自立し協力していく未来もあっただろうし、そうすればちょっとぐらい桜の木や屋敷を残す選択がとれたかもしれない。

 

甘い考えだよと言われそうですが、八嶋さんの演じるロパーヒンが成り上がりで目先の利益だけの嫌な奴ではなく、泥臭くもどこか愛嬌があったのでこの人ならもしかして…という希望があるように感じてしまいました。

その親しみやすい空気や巧みな話術で、一歩間違えたら客席中を冷え込ませてしまいそうなノリでも見事に独壇場にして笑いに包む芝居も圧巻でした。

 

それから天野さん演じるドゥニャーシャが好きで彼女が舞台上にいるとついつい目で追ってしまっていました。

階級社会におけるメイドという立場の割に振る舞いも心のあり方も随分と自由な彼女。求婚してきた男に気のある素振りを見せつつも他の男に情熱的に縋ってしまう奔放さとほんのりとコケティッシュな仕草で魅せつつも、清潔な空気を感じられる絶妙なバランスが魅力的でした。

 

それまでの騒々しいやりとりと打って変わってじっくりと噛みしめて語るようなフィールスの最期を演じた村井さんにも目を奪われました。

病院に行ったのでは? と疑問にも思ったのですが、あれはただ一人時代に残された者の象徴としての表現だったんでしょうか…

この場所こそが我が人生と仕えてきた家で静かに幕を閉じられたのなら他の登場人物たちよりよっぽど潔く幸福であったような気もします。

ここだけ別の作品かと思うほどに穏やかな静寂に包まれた場面でした。

 

それから忘れてはいけないのが永島さん演じる作業着姿の男。出番や台詞はそれほど多く無いけれど、その僅かな時間で暴力的なほどの異物感を放っていました。

その毒々しいオレンジ色の服装や手に持つチェーンソーが浮いているというだけでなく、一人だけ飄々とした空気は得体が知れず不気味で、桜の園を脅かす脅威そのものが具現化してきたようでした。




他にも、乱痴気騒ぎの奥で柵の上に一幕では無かった有刺鉄線がもうこの状況から逃げられないとグロテスクに主張する様子や、深刻な話の最中にクマの着ぐるみの被ったスーツの男が息子の亡霊のように三輪車で通り過ぎるシュールさ、がやがやとした台詞の応酬の中で屋敷のミニチュアだけは静かに息を潜めて佇んでいる不気味な光景など。

冷静になって振り返り細かい場面を切り取れば面白いなと感じる部分は沢山あったはずなのに、観劇中は本当にどうしていいかわからない気持ちや疑問ばかりが先行してしまって、振り落とされないように掴まっていなければいけない状況で耐えきれず自ら手を離してしまいました。

もしかしたら、古典に対して実験的な演出が売りと心構えができた上で観ていればこのやりきれない気持ちはもっと小さかったかもしれません。

全く前情報なしでの観劇チャレンジも考えものだなと思うと同時に、予想と違う作品に対しての自分の適応能力の無さも痛感した公演でした。

 

 

 

 

 

----------------------------------------------
桜の園
東京公演
PARCO劇場

2023/08/07(月) ~ 2023/08/29(火)

桜の園 | PARCO STAGE -パルコステージ-

スリル・ミー 松岡/山崎ペア ー9月18日の客席より

 

 

 

(私)松岡広大×(彼)山崎大輝  ピアニスト:篠塚祐伴

 

2021年には配信でしか観ることの出来なかったヤマコーペアの、念願の生観劇。

ですが2年前とは全く違う印象で、瑞々しいスピード感を残しつつも成熟した空気が加わり、より重苦しい後味を残す二人になっていました。



 

山崎彼、2年前よりもずいぶんスマートな振る舞いをする彼になっていたと思います。

頑張って背伸びしているお坊ちゃん感が減り三揃えのスーツも華やかに着こなしていましたし、何より無理に虚勢をはり松岡私をサンドバッグにする様子もありませんでした。きっと周りと交流する時もそつなく完璧な姿を保っていて、誰もそれを疑うことはないのではと。

でも外側を綺麗に取り繕った分だけ、その仮面は以前のものよりも薄く脆く、中身はより幼くなっていたように感じました。

燃え盛る炎を前にして綺麗だと呟いたその一瞬、山崎彼の表情が今にも泣き出しそうなものに見えたんです。

それからも事あるごとにキュッと眉根を寄せて小さな迷子のような顔をしていて、不安な、寂しそうな姿が常に隠せておらず、こちらもそんな“彼”にどう向き合っていいか分からずおろおろとしてしまいました。

 

この作品の“彼”という存在は、社会や家族の抑圧からくる狂気や加害性を抱えていて、自分の事を盲目的に慕ってくるのをいいことに“私”を理不尽に振り回している。

やがて殺人という取り返しのつかない所まで進んでしまうほど肥大した自尊心が、今まで虐げていたと思っていた“私”に完膚なきまでに叩き潰される。

役者さんによって色の違いはあれど、わたしがこの作品に対してざっくりと抱いている大枠はこんな感じで、“彼”に対しても多少の同情はあれどまあ因果応報だよね、馬鹿なことをしてしまったものね。という気持ちでした。

ただ大変に困ったことに、今年の山崎彼からはそういった凶悪な要素が感じられなかったんです。 

 

そして反対に松岡私が山崎彼よりもたちの悪い存在に思えました。

山崎彼からすれば松岡私は自分の思い通りになる相手だったんでしょうけど、どう見てもあれはわざと折れている。

二年前の松岡私なら絶対出来ないような真正面からの反論や露骨な呆れ顔をみせながらも、ふいと口を噤んで言う事を聞いたのは決して怯んだからではなく、どうせ聞かないからと仕方なしに付き合ってあげていたようで。

その判断は彼らが対等でも松岡私の方が弱いわけでもなく、まるで駄々をこねた小さな子供をなだめすかして上手いこと誘導している親のようであって、あくまで主導権はこちらにあるぞという余裕の表れにも見えました。

そこまで出来るなら山崎彼のことを止めるなり助けるなりすれば良かったけれど、なんだか松岡私がそういう行動をとる姿は想像ができないしやらない気がするんですよね。二人が出会ってしまった時点で破滅の道しか用意されていなかったように思います。

 

そんな実質的な力関係が私優位の状態で迫るスリル・ミーは思わず目を背けたくなる場面でした。

もうね、契約書を出した時点で松岡私はかなり強気。

『ここで破り捨てて欲しい?』と本気で今すぐ破りそうなぐらい指に力が入っていたけれど、仮に自分で破いたところでこの関係を終わらせるつもりはないし、契約書を手に取った山崎彼が破くとも思っていなさそうでした。

そうして押し倒される直前の山崎彼、目線がすうっと下がっていって、呆然とした中にも“どうして自分がこんな目に?”と悲しみが浮かんでいるように見えて、性的接触に怯えてさえいるようでした。

やがて操られた抜け殻のように起き上がり、蒼白な顔の奥に思い詰めた色がわずかに沈んでいたのも痛々しくてもはやこれは契約書を盾に取った“私”から“彼”への暴力なんじゃないかと。どう考えても絶対駄目。本気でもうやめてくれと思いました。

 

でも不思議なことに松岡私が求めたものって、快楽を伴った肉欲ではなかった気がするんですよね。

山崎彼に触れられたときの松岡私のリアクションは、嬉しいとか恍惚とするとかそういった特別感のあるものではなくて、ただ触れ合っていることが当然というようにぴたりと寄り添っているように見えました。そうして触れてくれると思ったのに期待が外れた時なんかにあれ?と少し驚いた顔をしたりしていたので、もう我慢できないと迫っていったのも既に踏み込んでしまった肉体的な距離の近さやそれを当たり前と思っている認識自体を否定されたと思って憤っていたのかなと。

 

 

 

どちらがより相手に依存しているかといえば、実は山崎彼の方がその度合いは強そうでしたね。おそらく気を許しているということすら自覚はしていなかったでしょうけど。

別の大学に移ったのもちょっと親離れに挑戦しただけに思えてしまって。

裏切られそうになっても他の彼達のような怒りをぶつけることはなくて、むしろ松岡私の気持ちが自分から離れてしまったが故にこんなことになっているんじゃないか?という思考に陥って酷く動揺しているように見えました。

『誓っただろ!裏切らないって!!』そう詰め寄る声も迷子センターで心細く待っていた子が迎えにきた親に逆ギレしちゃったような必死さでしたし。

それに松岡私のことをそこまで見下したり支配している意識はなかったんじゃないかなと。

『お前はなんて天才なんだ!!』こう明るく弾んだ声には無邪気な憧憬の念すらありました。

それから二人で脅迫状を読み上げる時にもちらちらと松岡私の表情をうかがっていて、自分が書いたものなのにまるで先導されながら一生懸命ついていっているかのようないじらしさで。

あまり自分の頭脳を過信しているように感じなかったんですよ。むしろいつも必死で考えているようで。

超人であることを証明したいと言いつつも、犯罪に求めたものは刹那的な現実逃避だったように思えました。

目の前の苦痛から気を紛らわす事だけに囚われたそれはかなり衝動的な自傷行為のようでもあって、自分の心を守ろうとするあまり無自覚にエスカレートしてしまったようでした。

 

そんな状態で、この行為を止めるつもりがない、なんなら助長してしまいそうな松岡私にすがるのは相手を間違ってるよ!!と思ったけれど、知能の特異さも相まってお互いがお互いのことを一番わかってる/わかられているという依存めいた閉鎖的な認識から、もう離れるに離れられない半身みたいなところまで行きついていたんじゃないかなと。物心ついて少し経った頃には二人はもう一緒にいたような気がして、食い気味な台詞のやり取りも相手がどんなリアクションをするのかがある程度見当がつけられる関係だったからこそではと。失うことのできない大事な存在には変わりないけれど、愛や恋かと問われるとそういった甘やかな響きのものとは少し違うものかもしれません。

“彼”が“私”にレイと呼びかける声、これも各ペアの関係性によって蠱惑的であったり威圧するようだったりと様々に聞こえますが、山崎彼の呼び方には故意に織り込まれた感情は見当たらなかったんですよ。それだけ当たり前に、ずっと前から馴染んでいた響きだと思いました。

ただ、端からみると二人で一つになりきるにはその形はあまりにも歪であったなと。たしかあの夜のことのあたりが顕著だったと思うのですが、会話や二人で歌う場面のあちこちにおそらく意図的にリズムやタイミングを崩しているんだろうなと感じられる部分があって、振り付けなんかでも普段はピタリと完璧に揃えている分ぐにゃりと気持ちの悪いズレが見せたときに二人の噛み合いきれなさが現されているようで、まるで不穏なこの先を暗示しているかのように思えて無性に不安な気持ちになりました。

 

 

 

『本当は俺がなりたかったのはああいう弁護士だ』って、この期に及んでなに威張りくさってるんだこいつは?と大抵は思うのですが山崎彼はもう叶わない夢を諦念を持って語ったような印象で、ちょっと口に出してみたかっただけなんだろうなと。

狭い視野で必死にもがいていた山崎彼が、最も先を見ている凪いだ場面でした。

 

そこからの松岡私の告白に対しても山崎彼は激しく感情を揺さぶられてはいないように見えました。

当然最初はちょっと引いているし驚きや負けたくない気持ちはあったけれど、自分を陥れた相手への憎悪や絶望や恐れでパンクしそうな感じではなかったというか。むしろ今まで幼さが全面に出ていた山崎彼がまっすぐ松岡私を見据えて正々堂々と同じ土俵で戦おうとしているようでした。

まあ、元々松岡私の方が優位に見えていたし現状でもそれは変わらないのですが。

なんで最後の最後だけこう感じたんでしょうか。もしかして山崎彼に完全に拒否されたくなかったという松岡私の意識が、この証言の結末をこんなふうに見せたのかなとか。

 

そう、54歳の松岡私によって語られる記憶には、どこまでが事実なのだろうかという引っかかりがずっとあったんですよね。

『彼の…友情が必要でした』明らかに言葉を選んだ間に、理由はどうであれ虚偽を織り交ぜる意思をありありと感じましたし。

誘拐の提案や眼鏡が見つからないとポケットをまさぐる時にびっくりするくらい白々しい物の言い方をしていたのも、流石に山崎彼もこんな態度を取られれば何か思うのではないかと気になったのですが、もしかしてこれは証言の中にしかいない松岡私なんじゃないかなと思えてきて。

『何を知りたい』そうぞんざいに吐き捨てられた言葉には何度も同じ話をすることにうんざりとした非協力的な気配があったことと、回想の中でも特に犯行に関わりがありそうなやり取りで声が不自然にうわずって聞こえたのもそう感じた一因な気がします。

なのでこれは絶対わざと眼鏡を落としたタイプだ…!と思いつつも松岡私がなぜその選択をしたのか、言葉通り山崎彼を手に入れたかったのか捕まってでも犯行がエスカレートするのを止めたかったのかもっと別の何かなのかがいまいち確証が持てず。

明らかに胸に一物ある表情をしていたり、血の付いたタオルを嫌そうにしながらもやけに冷静にカバンに押し込めたり、この“私”には何かあるぞとこちら側に思わせていたところにも何となく得体のしれない気味の悪さがありました。

 

『自由...?』と呟いた松岡私の瞳は揺らいでいるようで。

それまで迷う事なく突き進んできて、証言だってわざと出鱈目混ぜていそうな強固な意思の奥からみえたはじめての戸惑いでした。

山崎彼のいない世界で与えられる自由、そんなものはあるのか?途方もない孤独に気付かされてしまって、自分の信念がざらざらと崩れていくかの如く歪んだ表情はこの物語からなんの光も見いだせないことをまざまざと見せつけられているようでした。




そして山崎彼はその闇の中でも最も深い黒に塗りつぶされてしまっていると感じました。

作中で起こった犯罪行為については当然今までも色々と思うところはありましたが、今回は“彼”の置かれた状態のどうしようもなさ、明らかにその性質がないのに罪を犯してしまったこと、そしてその最期の報われなさを思って終始息苦しさを感じていました。

今まで様々なペアを通してこの作品に触れてきましたが、ここまでハッキリと気分が悪い物語だと自覚したのは初めてで自分でも驚きました。

とにかくもうやめてくれ、これ以上山崎彼を壊さないでくれと。

そんな荒んだ情動に追い打ちをかけたのが死にたくないでした。

無機質な青白さの中で途方にくれてしまったような歌は庇護者に必死に手を伸ばそうとする小さな子供のようで、馬鹿だね自業自得だよと指を指して笑うこともできないほどに寂しげで痛々しくて見ていられない。

ちゃんと守ってあげなければいけない子だったのに!

だって自分の犯した罪の重さも理解できそうにないほど無垢で繊細で幼いじゃないか!

2年前には一緒に転がり落ちていった松岡私が、今回は山崎彼を手のひらで転がしていそうな印象があったり証人として信用するに足りない存在に思えたのもあって、余計に山崎彼が孤独で保護が必要な未成年であるという感覚がきわだち、それなのに為す術もなくころがり堕ちていってしまった凄惨さに強い憤りと胸の痛みを感じました。

普段ならそういった痛みすらも「こんなに悲しくなっている自分」として快感の様に食べ尽くしてしまうのですが、今回はそうも出来ない心地で。

 

そうやって頭のてっぺんまでどっぷりと感傷に浸ってから突然、もし目の前で事件が起こっても自分はこんなふうに犯罪者に同情するのだろうかと背筋に冷たいものが走りました。

中身が幼くて可哀想な境遇ならひどくセンチメンタルな眼差しを向けて、最悪罪を償わなくてもいいと思うのか?

当然そんな事は無いと思いたいし現実と作品の世界を混同するなという話なのですが...

元々実在の事件が題材になっているというのもありますが、この回の松岡さんと山崎さんの芝居は「これはあくまでフィクションだから何があっても大丈夫」という舞台上と客席の間に無意識に敷かれた境界線を軽々と飛び越えてわたしの日常に踏み込んできた気がしました。

あってはいけない可能性。ソレが見えてしまったことに恐怖と具合の悪さを感じました。

(蛇足ですが、別日の公演ではまた全く違う受け取り方をしました。なので、わたしがこのペアに特に思い入れを持って観ていたせいで過剰に感情を揺さぶられたとかではないはずです…多分……)




今まで、スリル・ミーはその内容のショッキングなことよりも作品としての面白さが勝っているから何度でもどんなものでも観たいと思っていましたが、もう一度この時の感性のままこの日の公演を観たいかと問われれば二度と観たくないです。

なぜわたしは決して安くない金額を払ってこんなに出口のないしんどさを感じているのだろうか?まだこのペアの公演を観る機会があるのに耐えられるのか。そんな気持ちが浮かぶほど胸の悪くなる展開はまるで舞台上からの挑戦にも思えて、こちらもなんとか負けじと椅子にしがみついている100分でした。

 

最大の賛辞として書かせてください。

この日、わたしは心の底から嫌なものを観ました。

 

 

 

 

 

----------------------------------------------
スリル・ミー
東京公演
東京芸術劇場 シアターウエス

2023/09/07(木) ~ 2023/10/03(火)

https://horipro-stage.jp/stage/thrillme2023/

 

 

 

 

ドリームガールズ ー2月11日の客席より

 

 


ドリームガールズ…曲はなんとなく聞いたことがある気がするけど…3人組の黒人の女の子のコーラスグループで…ぐらいの知識で、当然BW版も映画版も観たことがなく、実話が元になってるという事すら今回はじめて知ったような人間が書いた感想です。

 

 

 

とにかくずっと音楽が溢れている…!
そんなのミュージカルだから当たり前でしょと言われそうですが、ただ劇中で沢山の曲が演奏されているという意味ではなく、舞台上の音の密度がとても濃くて常にその中で溺れているような感覚がありました。
もちろん演奏が止んで台詞のみが舞台上に響く瞬間もあったのですが、それすらもまるで音楽としての間のように聴こえました。
舞台の中心には少しだけせり上がってフチに細いLEDが取り付けられたターンテーブルのような盆が据えられていて、ひとたびそこに上がればわざわざセットを移動させてこなくても瞬時にステージが出来上がるシームレスさも、この音で溢れ続ける空間に相応しいセットだと思いました。

 

ストーリーとしては黒人差別に抗いながらブラックミュージックがアメリカ全土を席巻していく華々しい快進撃…を勝手に想像していたのですが、そういった外への広がりよりも華やかなショービジネスの裏に落ちる黒い影や仲間内での痴情のもつれで人々が擦り減っていく様を強く感じました。
もしかしたら沢山ヒントになる演出があったのかもしれませんが、ディーナ達黒人が当時置かれていた立場やあそこまでのし上がる事がどれだけ壮絶な覚悟がいる事だったかについては正直半分も汲み取れた自信がなく…そういう理由もあってより内々のドロドロしたものに目が行ってしまったのかもしれないなと。やっぱり馴染みのない時代や文化が扱われた作品にふれる時は予習をしておくべきでした。反省。

 

 

 

どこを見ているんだと突っ込まれそうですが、舞台後方と両サイドをぐるりと覆っていたパネルのセットがずっと気になっていたんですよ。
下町を思わせるレンガの壁のようなものとライトが仕込まれた白っぽいものが場面によって使い分けられていて、建物やステージなどの目立つ大掛かりなセットがほぼない中、べったりと平面的で大きなそれらは異様に目立つなと。
華やかなステージの場面などは吊り物のセットで奥行きを出していましたが(ここで吊るされる一面のcdやクラシカルなタッチのイラストがまた絶妙に時代感のあるもので良かったです)売れる前のドリーメッツやグループを離脱したエフィの登場する場面では天井に向かって高くそびえたパネルの主張が強く閉塞感を感じて、なんだか彼女たちの前に立ちはだかる障壁として存在しているようにも思えました。

 

で、このパネル、両サイドはちょこちょこと開いていたのですが後方の中央部分が開くのはディーナがカーティスとの別れを決意した時だけだったと思います。
形状的にどこかのタイミングで開くのかなという気はしていたのですが、ディーナの歩いていく未来が切り開かれたことを示すかのように満を辞して真ん中からババンと開きその奥の光に向かって進んで行くシルエットに、これぞ主人公たる人間にのみ許された演出!!と気持ちが高ぶりました。

 

 

 

主演として大きくポスターに載っているのにソロが無いなんてと驚いてしまいましたが、上にも書いた通り要所要所でしっかりとその存在を示していたディーナ。
そのドラマチックな人生ゆえに、おそらく劇中で一番スポットが当たっていたエフィに喰われてしまってはいけないし、だからといってこの作品がディーナ“の”話になるのも違うし、カーティスやローレル達も含め繊細な力関係のバランスで成り立っていたのだろうなと感じました。

 

自分の意思を押し殺して耐える性格といえば聞こえは良いけれど、グループの為とはいえ何度も『だってカーティスが言ったから』を免罪符に決定権を放棄するディーナにはやきもきしてしまいました。夢を掴むための彼女なりの最善策なのだろうけど本当にそれでいいのかなと。
エフィのように我を通そうとして輪を乱してしまう方が問題として目に見えやすいけれど、お人形としてステージに存在する事だけに徹して他の全てを人のせいにしてしまうのもある意味狡いしグループの軋轢の要因になり得るのじゃないかと。
そんな目線でディーナの事を見ていたからこそ、やがて心身ともに疲弊しながらも自分の力で立つ決意をした姿とその振り絞るような歌声に一層胸を打たれました。

 

望海さんのディーナは彼女の成長と変化が丁寧に描かれていて、リードボーカルに抜擢されて『私できないやりたくない!』と華奢な肩を不安げに震わせていた女の子と同じとは思えないほど、2幕ではスターとして堂々とした表情でステージに立ち、ベタな表現ですがその姿はまさに蛹が蝶へ羽化したような、大輪の花が匂い立ち鮮やかに咲き誇るような光り輝く魅力がありました。

 

 

 

何故か私は昔から、才能があって我が強くて生きるのに不器用な人物に肩入れしがちで、今回も出番の多さとかは関係なくそれに当てはまっていたエフィを擁護する気持ちがずっとありました。収録中にディーナの妨害をしたのは確かに大人気ないですし遅刻も度が越せば許されることではないですが、それでもエフィのやらかしたことはそこまで深刻に描かれていないようにみえたので、彼女に対する周りの態度にはそこまですることなのか!?と。
強いアーティスト性を持ち歌でグループを牽引してきた自負のある彼女をコーラスにした時点で上手く割り切れないのは目に見えていたでしょうし、それを指示したのが自分の恋人でその上メンバーと関係を持っているかもとくれば不安定になるのも当然なのに、どうして誰も彼女の事を気にかけなったのだろうと。
周りも彼女の元来ある我儘ともとれる面ばかりに目が行ってフォローする気になれなかったのかもしれないけれど、あまりにも“みんなの夢のため”という名の手が負えないほど大きくなりかけた自分達の都合ばかり気にして目の前の人間を蔑ろにしているように見えました。

国際フォーラム自体がそういう仕様なのかスピーカーに近い席がハズレだったのか分かりませんが終始音響がとても悪く、さあ盛り上がって参りましたとキャストが声を張り上げた所で尽く音割れしていたので、迷惑をかけるなと一同からエフィが糾弾され拳の代わりに音圧で殴り合う場面は必要以上に怒鳴って聞こえ、さらに上記の理由も重なりしんどく感じました。

 

Wキャストのエフィは私が観た回では福原さんが演じていて、このキャステングは上手いなと唸ってしまいました。
福原さんのプロフィールを見たところ歌手活動がメインの方なんですね。
それもあってか、所謂ザ・ミュージカルではないドリームズやエフィのソロの楽曲たちをソウルフルにカッコ良く“歌”として聴かせる事に関してズバ抜けていて、それぞれ十二分の歌唱力を持ったキャストの中でも『歌はエフィが一番』という劇中の評判に違わずしっかりと輝いていたなと。
あの飛び抜けてパワフルな歌声だからこそccの言った『姉さんの歌は上手いけど強くて違う方向に行く』も納得できるし、台詞の掛け合いをパフォーマンス重視で表現していたのも才能があるが故にグループ内で異質な存在となってしまったエフィには合っていたと思います。

 

 

 

大体全部アンタのせいだよ!とありったけの声を張り上げて野次を飛ばしたくなったカーティス。
出だしから敵に回したくないやり手な匂いがプンプンしていて、人を魅了する話術と戦術に長けていた胡散臭いカーティス。
野心と才智に溢れ良い人の要素が全く感じられず、 エフィとも彼女をただ懐柔するために付き合ってるのかなと思えるような男だったからこそ、どんなに醜い姿を晒してでも絶対に成り上がって行くのだろうと期待していました。
それなのに最終的に黒人の誇りを示したかったのかただ権力が欲しくなったのかディーナを手元に置いておきたかったのかよくわからないまま呆気なく破滅してしまった彼に対する失望感は大きく、それだけspiさんの序盤で人の心を掴む演技が効いてたんだなと感じ、ドリームズの成功と挫折それから新たな旅立ちの物語であるとともに、一人の男の没落の物語としての印象も強く残りました。
上の方でも触れた音響の問題ですが、声質の相性もあったのかspiさんの太く力強い歌声はそんな環境にも負ける事なくしっかりと届いてきたのでその点も凄いなと思いました。

 

 

 

ジェームズがクサイ恋愛ソングを歌い上げるなか、こんなはずじゃなかったと手をとり慰め合うディーナとローレル、お姉さんを助けて貴方も自由になるべきとccを説得するミシェルの図にはちょっと色恋沙汰が渋滞し過ぎているなと感じてしまいました。
ここにいないエフィとカーティスを含めすべての関係が仲間内で完結しているので余計に逃げ場がなくて絡れて見えるし、皆がみんなくっつけなくても良いんじゃないのかなと。

 

ジェームズとローレルのカップルは、パートナーがいる身でありながら若い子と関係を持ってしまうどうしようもなさとそれでも霞むことのない愛嬌を持つジェームズの人間性や、そんな彼を通してローレルが憧れの人との初めての恋に浮かれる女の子から芯のある大人へと変貌していく様子、その中に併せ持つ恋人に対するキュートな我儘さなども上手く描かれていてまだわかるのですが、尺が足りなかったと言えばそれまでだけれどミシェルとccの関係はいくらなんでも唐突で情報も想像する余白も無さすぎるように感じました。
最初は揉め事に巻き込まれたくないと言っていたのにそれでもちゃんとドリームズを支えてきた訳で、そこに至るまでにミシェルなりの考えや葛藤があっただろうに、他の2人が新しい道への希望を宣言した時に大声で主張したのが『私プロポーズされたの!』なのはちょっとあんまりじゃないかと。その前にもっと彼女自身の事を聞かせて欲しかったです。
ミシェルという存在があって彼女がccと恋に落ち結婚を喜んだのではなく、“エフィを助けさせるためにccの背中を押す恋人”として雑にそのポジションにあてがわれたように思えて残念な気持ちでした。

 

 

 

ストーリーの好みや音響の問題など若干引っかかる事もありましたが、歌も芝居も満点のキャスティングや音楽に乗ってぐんぐんと力強く物語が進んでいく構成は確かに素晴らしく、口コミが非常に良かったのも納得だと思います。
ショーやオーディションなどたくさんのグループが集う華やかな場面では実力のあるアンサンブルキャストの方々のダンスや歌がしっかり堪能できたのも嬉しかったです。
あとはやっぱり衣装ですかね!特にドリームズのメンバーは少女時代の素朴なお洋服から洗練されたステージ衣装までもう何回着替えたか分からなくなるほどで、次はどんな姿が見れるのだろうと場面が変わるたびにワクワクしていました。
1幕で着ていた大振りのホログラムがキラキラするミニワンピが特に可愛かったです。

 

なんだかんだですっきりとした大円団でしたし、ミュージカル観たな!と思える作品でした。

 

 

 

 

 

----------------------------------------------
ドリームガールズ
東京公演
東京国際フォーラム ホールC
2023/02/05(日) ~ 2023/02/14(火)

ブロードウェイ・ミュージカル『ドリームガールズ』 | 梅田芸術劇場

チェーザレ 破壊の創造者 ー1月21日の客席より

 

 


1月21日 ヴェルデチームの回です

 


個人的な事なのですがわたくし大きな劇場でミュージカルを観るのが1年以上ぶりでして、そんな干乾びた状態で挑んだチェーザレは、一目でこだわりの感じられる豪華な衣装!これでもかと回転する盆!!一人でも有り難い歌上手ベテランの大集結による怒涛の美声!!!それらを全身で浴びてしまったのでそりゃあもう嬉しくて嬉しくてテンションが最高潮になってしまいました。
というわけで、鉄は熱いうちに打て!じゃないですが、いま胸にある興奮が冷めぬうちに形にしておきたくなったので、このブログにしては珍しく直近に観劇した作品の感想を載せます。
いつにも増して勢いだけで書いているのでさらっと読んでいただければ幸いです。

 

 

 

舞台は15世紀のイタリア。あまり馴染みがない時代の、政治や宗教が複雑に絡んだ物語。そしてグランドミュージカルなので当たり前ですが登場人物が多い...!なんだか噛みそうな難しい役名の方もいる…!
このまま丸腰では話についていけなくなるかもと不安になってしまったので、公式から出されていた相関図とにらめっこし無料公開されていた原作をありがたく読んだうえで劇場に向かいました。

 

余談ですが、今回初めて知ったこの原作、その美麗な絵柄と映画の様なこだわり抜かれた構図の数々に一目惚れしてしまったので近々買い揃えたいと思っています。重厚なストーリーの中にクスリとできる軽やかな笑いが織り込まれているのもツボで、綿密な取材のもと描かれた衣装や建築物も圧巻。
観劇きっかけでこんなに素敵な漫画に出会うことができてとても嬉しくなってしまいました。

 

舞台の感想に話を戻しますが、台詞や個々のエピソード自体は原作の要素を丁寧に拾い集めて作られた印象でした。
ただ、三時間という時間の中に膨大な情報やストーリーをぎゅぎゅっと凝縮させなくてはいけないので、全体を通して観るとそれらの場面がかなりザクザクと並べられてしまっているな、と。これはこの作品に限らず長編の原作を持つ作品ではどうしてもネックになりがちな点だと思いますし、事前にある程度話が頭に入っていた分脳内で状況の補足をしながら十分楽しむことができましたが、それがない場合は最低限この時代の知識を持っていないと今はどこの場所にいてどういう状況?や、この人物達の関係性は?といった点を把握する事に気を取られてしまうかもと感じました。

 

 

 

中川さんが単体で16歳を演じる姿は容易に想像ができたのですが、正直それが若手の役者さんに混ざってとなるとどのように見えるのだろうと思っていましたが全く違和感ありませんでしたね。
圧倒的な歌唱力や成熟した雰囲気はむしろ他の学生達の中で一際輝くチェーザレのカリスマ性として昇華されていましたし、時折達観したような表情を見せるのが印象的でした。
近寄り難いのかと思えば時には若者らしい一面もあって、お祭りの賑やかな喧騒の中、場違いに片膝をついて女の子に薔薇を差し出すもツンとあしらわれ一瞬キョトンとする表情や、ジョヴァンニの前では少し気安い雰囲気になりソファーに脚を上げてお行儀悪く転がっている様子が微笑ましかったです。

 

一幕の二番目ぐらいに歌われたチェーザレのソロナンバーが情感たっぷりな歌謡曲の香りを感じるメロディで耳に残っています。明らかにイタリアっぽさはないけれど不思議とこの世界観を邪魔していなくて面白かったですし、他にもいくつかそういうクラシックな曲調のものがあったのが私にとっては新鮮に感じられて好きでした。
ただ、音響の関係なのかやや説明的な歌詞が多かったせいなのか私自身のコンディションの問題があったのか、歌詞や台詞が上手く頭に入って来ずにするすると通り過ぎてしまう瞬間が何度かありました。
生演奏と楽器のように美しく響く歌声を聞くだけでも気分はとても高揚したのですが、もう少し言葉を自分の中に取り込んで咀嚼したかったなと。本当はもう一度劇場に行ければ良かったのですが都合が付かず...嬉しいことに配信が決定したので、この日に抜けてしまった部分もちゃんと確認したいと思います!

 

 

 

一番テンションのあがった歌唱場面はやはり、ロドリーゴ役の別所さん、ジュリアーノ役の岡さん、ロレンツォ役の今さんによる三重唱でしょうか。あまりの素晴らしさに、全然そんな気分になる場面ではないのについマスクの下でにっこりしてしまいました。
この御三方はその重厚で豊かな歌声に相応しく役の上でも強い権力を持っているので衣装も特に豪奢。そしてその衣装を見事に着こなしてしまう存在感に、登場しただけで場がぐっと締まるようでした。
惜しみなくたっぷりと使われた布地には箔や織りで美しい模様が施されていて、それらが照明を受けてキラキラと贅沢な輝きを放つ様子にはため息が出るほど。
まさに目も耳も幸せな瞬間!

 

次期教皇の座を争うロドリーゴとジュリアーノはどちらも威圧感の塊!強い!!という感じでしたがその方向性にはそれぞれ違う色を感じました。
ロドリーゴはとにかくパワフルで俗物的。沈む直前の太陽のようにねっとりとギラつく野心を常に剥き出しにしていて、『ケッ』っと吐き捨てながらマントの裾を摘んでわざとらしく翻す姿は聖職者に似合わずどこか道化じみていました。
ソロもラテン調のノリの良いナンバーで、客席をも巻き込み手拍子が沸き起こる中歌い上げる勢いにあてられて、もう既にロドリーゴの天下が訪れてるぞ!!凄い!という気持ちになってしまうほどでした。
一方ジュリアーノは、一言発した瞬間から場の空気を震わせた他を寄せ付けない威厳が終始崩されることがなかったなと。
権力を得るために残酷な手段も厭わずそこで出た犠牲を気にもとめない冷徹さを持ちながら、あくまで自分は神に仕える身であるという霞むことのない敬虔さと硬質な信念を感じました。
鮮烈な高潔さを感じる神への祈りのソロは、観ているこちらまで強制的に浄化されてしまいそうでした。

 

丘山さん演じるラファエーレも、同じ枢機卿である上の二人とはまた別種のインパクトがあって目が釘付けになりました。
権力闘争の渦中にいながらもそんなことは考えたくないっ!と言わんばかりに美しいものが好き!!とキラッキラに歌いあげ、白っぽく輝く華やかな衣装をひらりと翻しくるくるぬるぬると踊る姿が印象的でした。ラファエーレ自身も華やかで美しい容姿で、キラキラキャピキャピした効果音が目に見えるようなのに、そこに全然嫌味がなくて純粋に芸術を愛でるこの瞬間が楽しい!!って空気がバンバン伝わってくるのが良かったです。

 

 

 

これどうやって表現するんだろう...?と原作を読んで気になっていた乗馬の場面は、舞台全体を覆うスクリーンに実際に馬に乗ったチェーザレとアンジェロの映像が大きく映し出されてなるほどそうきたかと。
生身の人間が行う演劇において舞台上に人がおらず映像だけを眺める時間があるのは不思議な気持ちもありましたが、映画さながらに凝られた映像で斬新な試みだなと思いました。
他にも会話や歌詞に登場するリアルな自然の風景や美術品が投影されていましたが、こちらは舞台上を彩るというよりは資料的な印象が強くて、見る側に対しての分かりやすさを優先したのかなと。
ダンテとチェーザレの対話の場面で、まるで不穏な未来を象徴するかのように滲み出た赤が階段をじわじわと染めていったのは不気味さの中にも美しさがあって好きでした。

 

 

 

劇中幾度も『アンジェロ…天使という名前…』とチェーザレに非常に優しく素敵な声で歌われていたアンジェロ。
山崎さんのアンジェロは、そう呼ばれるにふさわしい純粋さと愛らしい天然っぷりでふわふわと包みこんだ中にしっかりとした芯があって、うっかり口をすべらす事もあるけれどいざという時にはちゃんと自分の意思で主張が出来て肝が据わっている逞しい印象を受けました。
最初は見知らぬ環境への不安からかスラリとした長身をぎゅぎゅぎゅっと縮こませながらも、新しい出会いには瞳がキラキラと輝いて口角のキュッと上がる表情が魅力的でした。どれだけ厳しい現実を目の当たりにしても失われる事のない澄んだ瞳のきらめき具合に、アンジェロの瞳専用の照明でもあるのかと一瞬思ったほど。
意外とリアクションが大きくて、慌てたり逃げ回ったりする時のコミカルな動きやころころ変わる全力な表情も愛嬌がありました。乱闘の場面では襲いかかってきたフランス団の人にうっかりグーパンチで反撃してしまって、倒れた相手にびっくりして拳を抑えたまま『ゔあぁ!??』ってなっていた様子が全然喧嘩慣れしていなくて良かったです。

 

乱闘の場面で一等輝いていたアンリ。原作だともっと話が通じなくて好戦的な怖いやつという印象でしたが、山沖さんのアンリは荒々しくもどこか憎めないキャラクターになっていたなと。
ドスの効いた歌声と大きな身体を惜しみなく使った力強い身のこなしには独特の迫力かあって、まさに闘牛のような猛々しさに絶対近寄りたくないなと思ったのですが、諦めの悪いバカと評されながらながらふらつきつつチェーザレに向かっていく様子に彼には彼なりの主義があるように感じました。失神して運ばれていく姿もちょっぴりお茶目でしたね。
酒場の場面でみんながチェーザレを称え盛り上がる中、彼を見下ろしながら憎々しげに歌う姿も好きでした。

 

橘さんのミゲルはまずビジュアルがミゲルそのもの!

その分評価が甘くなってしまった気もするのですが、そうさせる説得力もある種の実力かと。
原作よりもチェーザレとのやり取りが少なかったぶん、より寡黙に、陰のように支える印象が強かったです。常に剣の柄にかけられた手と、チェーザレの周りに危険がないか見張るようにピンと伸ばされた背筋、その立ち振舞いの美しさに目を引かれました。
パフォーマーというだけあって、2幕のダンスも登場から既にカッコ良くて痺れました。ポーズをキメたままセットの回転と共に現れるので一歩間違えればシュールになりそうなんですけど、ミゲルをはじめスペイン団のメンバーの皆さんも魅せ方に全然隙がなかったです。
おそらく絡まったロープを解いてあげていたのかな?工場建設の場面で作業場の女性たちをサッと手伝って喜ばれている姿がイケメンでしたね。

 

女性たちといえば、この作品の女性キャストさんって5人だけなんですよね。その割には出番がたくさんあって裏では早替えとか大変そうだなと。
チェーザレの母親から、ガッツリ歌い踊るラファエーレのバックダンサー、お祭りを楽しむ市民に、貧民街の人々、軽やかな衣装を優美になびかせたボッティチェッリの歌の踊り子と幅広く魅せていて、酒場の場面ではだいぶお腹の大きくなった妊婦の店員さんまで。
コーラスもパワフルで、そういえば5人しか出演していないんだっけ!?と途中で思い出してびっくりしてしまいました。凄い!拍手!!

 

 

 

風間さんのジョヴァンニは一見気位が高く気取っていると見せかけて、実際はあえて頑張ってそういう雰囲気を出していたのかなと。権威あるメディチ家の息子として、他の学生より一歩上に立ち大人でなくてはという気持ちがあるように見えました。
アンリに何でも金で解決すると揶揄されて一瞬顔色が変わった後、すぐに持てる者特有の鷹揚な振る舞いに戻ったのも感情に流されず自分の取るべき行動をわきまえている印象でした。
そんなジョヴァンニの内面の直向きさを強く感じたのが卒業試験の場面でした。
『私は美しくないが』と前置きしながら(風間さん自身は整ったお顔立ちですし舞台版ではその辺言及されてませんでしたが、おらく容姿について言ってるんですよねこれ?)美しいものを美しいと感じられることへの感謝、その心を持って生きる事の大切さ、それをもたらす芸術への愛を真摯に歌う様子に、閣下はそのお心が!誰よりも!!美しいので!!!そんなこと言わなくても大丈夫です!!!!と立ち上がって拍手したくなるほどでした。
でも歌終わりに直ぐ台詞が入るのでタイミングがなくて残念。

 

この試験のやり取りを聞いてふとロレンツォの事を考えたんですよね。
市民を想うあたたかい眼差しと職人たちの技術を尊重し支援する懐の深さや穏やかな佇まいを思い出して、あの父親と豊かな環境によってこんなに素晴らしい子が育ったんだなというのが伝わってきて感慨深くなりました。
この親子の直接的な交流は劇中あまり描かれていなかったと思うのですが、その言動から読み取れる関係には優しい愛情が流れているようでした。
そう感じさせてくれた今さんのロレンツォは枢機卿組のお二人とはまた違うベテランの貫禄で、その歌声にも包み込むような癒しの雰囲気がありました。

 

 

 

2幕のラストのチェーザレのナンバーの歌詞が、『とても美しかった』で〆られたことで、その瞬間ああこの人の短い青春は終わったんだなと妙に腑に落ちたんですよね。
この作品はドラマチックな展開の末の大円団はないですし、物語はここからといったところで結構唐突な終わりを迎えてしまうためかいまいち盛り上がりどころがないとの感想をいくつか見かけたのですが、最後の最後でそういうほろ苦い喪失感を一気に味わうことで、今までの場面場面が思い返され懸命に生きる若者たちの青春が煌めいていたなと感じられるところが私は好きでした。
その最中にいるときは気づけなくて、失ってからはじめてわかる。みたいな感覚とでもいいますでしょうか…

 

ここまでざーっと書いてみて、今回は正直、細かいことはどうでもいい!!と言わんばかりに全てを圧倒する歌声と役者さんそれぞれキャラクターづくりの上手さとハマり具合にかなり助けらていた部分が多いのかなという気がしてきましたが、普段は違う系統の作品で活躍している若手と中堅とベテランがバランスよく集結しそれぞれの良いところが生かされていると思いましたし、なによりせっかくの国産ミュージカルですし、まだまだ進化していけそうな予感がするのでどんどん手直ししながら長く再演される作品になってくれたら嬉しいなと思いました。

 

 

 

 

 

----------------------------------------------
チェーザレ 破壊の創造者
明治座
2023/01/07(土) ~ 2023/02/05(日)

ミュージカル「チェーザレ 破壊の創造者」公式|明治座

 

 

 

ともだちが来た ー11月4日と7日の自室より

 

 

 

まだまだ1年以上前に観た演目の感想が続きます。

 

 

その場の空気を感じながら観るのと、決められたカメラワークで画面越しに観るのとではどうしても受け取るものが違ってくると思っていて、今まで一度も劇場で観ていない演目について配信の視聴のみで感想をまとめるつもりはなかったのですが、今回は偶然同じ配役で二回観ることになったのでいつもよりは深く作品に触れられたんじゃないかなと感じて、せっかくだし書いておこうかなと思った次第です。

 

 

 

大学生の“私”と、彼のもとに突如自転車で訪ねて来た、亡くなったはずの“友”が、うだるような暑さと夏休みという緩んだ空気の中でじゃれ合うような会話を繰り広げる二人芝居。


出演者は、稲葉友さん、大鶴佐助さん、泉澤祐希さんの3人。誰と誰が出演するかの日程だけ事前に決まっており、配役は当日観客の目の前で団扇トスで決定。衣装も舞台上のラックに沢山掛かっているものからその場で選んでいました。
他の演目でもたまにあるような、予めスケジュールを決めた上での二役入れ替わりですら大変そうなのに、直前までどちらの役を演じるか決まっていないなんてどんなメンタルをしているんだと役者さんの切り替え能力に感嘆していたら、なんとラストの2公演は更にハード。誰が出演するかすらも団扇トスの運命に任せてしまうという、いつ誰がどのタイミングで千秋楽になるかもわからない非常に緊張感のある挑戦的なスタイルでした。

というわけで、最初に稲葉さんと大鶴さんの出演する配信を観て、他の組み合わせも是非観たい!とスケジュールの合う千秋楽直前の配信を追加したところ、まさかの両方の回で稲葉さんの“友” 大鶴さんの“私”という結果となりました。
それはそれで、こういうやり方だからこその経験で面白いですけどね!

 

 

 

セットは非常にシンプルで、舞台上に何畳かの畳がぽつんと置かれてあるだけだったと思います。
冒頭、唐突にその中心で抽象的な台詞を一人語り続ける私。
『畳のメを見ている、ほこりが…見える。ほこりを食べない蟻……。水の音が聞こえる』頭の中の水音を掻き消すように、虚ろな瞳でガリガリと畳を引っ掻く姿。
ほぼ前情報無しで観たので、いきなりの掌からざらざらと溢れていってしまいそうな言葉の羅列と異様な雰囲気に何やら難解な作品を選んでしまったのかと一瞬動揺していまいましたが、ジットリと纏わりつくような夏の空気を感じさせる大鶴さんのぬめり気を帯びた表情と身のこなしからは只者ではない様子がバンバン伝わってきて、そんな動揺も忘れて彼から一気に目が離せなくなりました。

 

そこへ突然現れた友。室内なのに自転車に乗って、サンダルも履いたままというこれまた異質な姿。それなのに当然のようにそこにいるんです。
稲葉さんの少しトーンの高い声と間延びしたようにふわふわと無邪気な言動には不思議な透明感があって、まるで彼自身も浮遊しているような印象を受けました。
困惑しながらもめいっぱい平静を装う私の姿をよそに噛み合っているのかいないのか分からない受け答えを平然と続け、まるで硝子玉みたいに無感動な瞳で淡々と自らの最後を語る姿は彼自身の元々の性質なのか、肉体から魂が離れたことであんなに飄々とした存在になったのかどちらだったんでしょうか。

そんな風に二人とも少し変わった雰囲気を持っているけれど、交わされるのはごくごく普通の学生のたわいない会話。部活の剣道のこと、高校時代に女の子を部室に連れ込んだ時のこと、実のならない庭の柿の木のこと―。
それなのに、その中に痛々しさの残る生傷のような感情が隠しきれずにちらりと覗く瞬間が幾度もあって、これから先二度と人生が交わる事の無いお互いへの思いをギリギリで抱えている様子にチクリと胸が痛みました。

 

私が頻りにすすめる麦茶に、友は頑なに口をつけなくて、その度に私が代わりに飲んだり頭から被ったり(!?)していて、役者さんたちは私役が当たるたびにお腹ちゃぷちゃぷになりそうで大変だなと。
何気なくもてなすように、強要するように、懇願するように、何度曖昧に躱されてもそうやって麦茶をすすめ続けたのは、一口でもこれを飲んでくれたら友が幽霊じゃないという証拠になるような気がして、その万に一つの可能性に掛けての行動に思えて切なかったです。

 

 

 

何もしないで死んだ。友はそう言ったけれど、生涯で自分の存在をずっと忘れないでいて欲しいと思える友達ができたのは充分大きな事だったんじゃないかなと。
『値うちのない命、だけど俺はここにいたんだなあ。俺は、覚えていてほしいんだよ。おまえに』
絞りだすように叫んだ友の台詞がグサリと突き刺さって、自分はこの世を去る時誰かの記憶に残りたいと思うのか、そんな友達はいるのだろうかという考えが頭をよぎりました。

 

『俺、お前が来てくれてうれしいよ。』私が何度も口にした短いこの言葉からは心の底からそう思っている様子と、とにかくそれだけは伝わって欲しいという気持ちが見えて、その想いの強さに、これは私の願いによって友の幻を見た、若しくはその魂が呼び寄せられた話なのかなという気がしました。
それぐらい私も友の事を代わりのない存在と強く思っているように見えて、そんなふうに他人の心と深く関わったのはきっと何もない人生なんかでなくて誇っていい事で、羨ましいとすら思いました。

 

 

 

二度目に観た回ではふとした時にお互いに向ける表情がより暖かく感じられたからこそ、この穏やかな時間の後に訪れる別れを考えてしまって、記念にと二人で写真を撮る場面に流れる優しく柔らかな空気すらも哀しく思えてしまうほどでした。

 

大鶴さんの私は、友の事を見守るような視線を幾度も向けていて、二人でいる時は少しだけお兄ちゃんみたいなポジションだったのかなと。
稲葉さんの友は、無邪気に振舞っていたと思えば時折艶や憂いを帯びたようになる掴みどころのない危うい魅力はそのままに、前見たときよりも私のことが大好きな感じで、私が自分の事を思ってくれているのをあどけない笑みで純粋に喜んでいる様子が印象に残っています。
そのせいか、最初に観た回とは逆に、友が強く会いたいと願って私の元に現れたように感じました。

 

 


眠りにつく前にふと、明日目が覚めなくてもいいのにと思うことって誰しもあると思うんです。その感情が強いか弱いかの差はあれど、澱のように沈む漠然とした不安に包まれて、その選択の結果どうなるかは分からないけれど、とりあえずこの世界での幕を閉じて何処かへ行きたいと思う時が。

友達をつくったりうまく流れに乗ることが出来ない大学生活の中、友は思い詰めすぎて自ら生きることをやめてしまったというよりは、そんなふうに現状ではない何かを求めてふらりと海に吸い込まれてしまったのかなと。
そうなってからいざ振り返ってみて、自分の人生って何だったのだろうという気持ちが湧いてきたからこそ、せめて私に自分の存在を覚えていて欲しいと願ったのかなという気がしました。

私も友よりは上手く生きているけれどどこか少し特異な感性を持っていそうで、本心からは周りと馴染めてなかったんじゃないかと。
同じ部活の女の子と片っ端から関係を持つのも年頃の男の子の欲求というよりは欠けた部分を無理やり埋めようと躍起になっているように見えて、取り憑かれたように頭に水音が響いていたのも時折ドロリとした病的な目をしていたのも、心の何処かに海に飛び込んだのは自分だったかもしれないという恐れがあるからのように思えました。

 

友が穏やかな口調で言った『ありがとう』には、その場の行為に対しての感謝だけでなくてもっとずっと沢山の思いが含まれているように感じて、それを分かっているからこそ、悲しさを無理やり呑み込みどうにかしてこの現実を受け止めようとする私の表情が印象に残っています。

 

この二人、部室の一件から少し気まずいままでいたところに受験も重なって、お互い心の底では気にかけつつ微妙な距離だったのかなと。それから大学もそれぞれ違って、もとに戻るキッカケがないまま永遠の別れを迎えてしまって。
そうやってどこかしこりを残したままの状態で“ある日突然死んでしまった友”と“葬式で泣くことができなかった私”は、この少しだけ非日常な再会で、ちゃんと区切りをつけてお別れができたような気がします。

 

いつの間にか去ってしまった友と、一人部屋に残された私、それから二人の思い出までも温かく包み込むように物語の終わりに流れたノスタルジックな音楽と夕陽の色合いがとても好きでした。

 

 


この時期にこの戯曲を選んだ意図って何だったのだろうと。
真意はわからないですし、わたしの言葉で書くと 非常に陳腐な感じになってしまうんですけど、なんとなく“会う”とか“口に出して伝える”って事をもっと大事にしていきたいなと感じて、しばらく連絡を取っていなかった知人にメッセージを送りました。
ただフィクションとして眺めて綺麗な感傷に浸るだけでなく、他人との交流が希薄になりかけていた現実に目を向けさせてそっと背中を押してくれる舞台でした。

 

 

 

 


----------------------------------------------
ともだちが来た
浅草九劇
2021/10/27(火) ~ 2021/11/07(土)

ともだちが来た | 浅草九倶楽部/浅草九劇


戯曲がこちらで無料公開されています

ともだちが来た | 作品 | [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

森 フォレ ー7月11日と24日の客席より

 

 

 

もうこの作品も観劇した日から1年経ってしまったのですが、未だに自分の気持ちにどう折り合いをつけたらいいか判断しかねているんですよね。

演劇作品としての出来は素晴らしかったと思うのに、そう感じた事実をどうにも肯定しきれない引っかがりがずっと残っている気がして。

だからといって観なければよかったとは全然思っていなくて、困ったなぁと思いながら時折箱から取り出しては掌に乗せてしげしげと眺めているような、そんな感覚をずっと持っています。

 

 

 

現代から19世紀まで140年を遡り8世代に及ぶ人々を描く壮大な物語というふれこみ、 事前に悲劇喜劇に掲載されたものを読んだ人達が口を揃えて難解だという戯曲、加えて公式からわざわざ人物相関図が出される状況に、処理能力が貧弱な私の脳味噌はついていけるかしらとかなり心配していたのですが完全に杞憂でした。

舞台上では違う時間軸を生きる人々が同時に存在したり時代や場所が突如移り変わるなど、それらが複雑な人間関係と共に森の中の迷路のように交錯し蠢いていたのですが、ネタバレ有りとの事であえて目を通さなかった人物相関図無しでも物語に置いていかれる事はありませんでした。

いつの時代の誰の話かが衣装やさりげない台詞で明確に分かるように演出されていたので、今目の前で起こっている事に没入して、台詞の詩的な表現を味わっているうちに自然と流れに乗って行けるような感覚があって、やがてバラバラに映し出されていた一つ一つの場面が時代を超えて繋がって行く構成には爽快感すら感じました。

 


ただ美しい言葉選びをするだけでなく、いくつかの台詞はそれぞれ別の人物から繰り返し発せられていたのも興味深かったなと。

特に覚えているのがレオニーとサラの『服を脱がせて世話をしてあげたけれど、目を覚すのが怖くて抱きしめるまではしなかった』と、ルーとオデットの『私は全部ほしいの、今すぐに、そしてそれが大きくて見事で、仰天するようなものであってほしいの』って台詞なんですが、同じ言葉でもその度に違う意味を持って聞こえて、でも言葉自体の印象はどんどん強まっていくのが好きでした。

 


美術もシンプルでありながら印象的で、舞台の中心には切株の年輪のような模様のある強い傾斜のついた大きな円があって、そのまた中心の別の傾斜のついた小さな円と一緒にぐるぐると渦を巻いているように見えて、眺めていると吸い込まれてしまいそうだなと。

そしてひとたびその上に役者が立つと、彼らはまるで小さな円を中心に軌道を描く惑星のようで、大きな円はその周りに広がる宇宙のようにも思えて、その光景がとても美しかったのを覚えています。

 

 


一度目に観たときは、ルーとダグラスの関係の着地点は救いだと思ったんですよね。

血を継承する、子供を宿す、誰かと約束を交わす。まるで呪いのように描かれたこれらが常にべっとりと纏わりついて、壮大なのにどこか閉塞的な空気を漂わせるこの物語に大きく風穴を開けたルーとダグラス。

『君が困ったときは助けになる』物語の終盤で発せられたダグラスのこの約束は、作中で幾度も交わされてきたそれとは違い苦痛を伴うものではなくて、『もし僕に娘ができたら、君みたいに育ってほしい』という台詞も男女が肉体関係を持ち血を繋いで来たそれまでの継承の仕方ではなくて、二人のやり取りにはまるで今までの連鎖を断ち切ったような爽やかな開放感を感じました。

 


それなのに、どこかでああ良かっためでたしめでたしと片付けることが出来ない違和感が残り、それが何なのかハッキリさせたくて急遽用意した二度目の観劇。 

最初は救いだと思った約束の場面、ダグラスがプレゼントとして贈ったコートの真っ赤な色を目にした途端にゾッとして鳥肌が立ってしまいました。そんなに優しい笑顔でなんてものを渡してくれたんだダグラス…しかも『あなた好みの色じゃないけど』って分かってて敢えてその色なんだね…と。

 


観劇中にもうっすらとそんな気はしていたし、実際パンフレットの衣装設定にも書かれていたことなんですが、この物語において赤い色は母の象徴なんですよね。そして黒は父親。

衣装さん曰くダグラスの黒いジャケットには父親の遺品というイメージもあったそうで。物語の最後にそのジャケットを脱いだ姿で現れるダグラスは、自身を雁字搦めにしていた父親との約束から開放されたようにみえました。

それなのに、その時ルーは自らの意志で赤いコートを羽織っているんですよ。

母親の象徴であり、彼女自身の母であるエメも冒頭で着ていたような赤い色。そしてあれだけ誰も好きにならない子供も持たないと吐き捨てていたのに、自分も命を繋いでいくことを示唆するような台詞を言うんです。それはまるでこの物語に描かれた母という存在と役割を彼女が受け入れた証拠であるかのように思えて、花びらにもみえる真っ赤な紙吹雪が祝福のごとくふりしきる情景がとても美しかった分、反比例して自分の中に黒いものが溜まっていくようでした。

 


初回は雰囲気に呑まれてなんとなく目を反らしていたんですが、二人の着地点が今までの男女の関係性や役割といったものから本当に決別したものであれば、赤い色もまだ見ぬ我が子への言葉も必要ないんじゃないかとハッキリ気づいてしまったんですよね。

リュディヴィーヌの描かれ方は子供を産めないと女じゃないし価値が無いと突きつけられているようで嫌悪感を感じて、もう少し演出でこちらへの伝え方をどうにか出来なかったのかなとか、リュスが歯を全て抜かれてしまうのはあまりにも唐突かつ他の悲劇とは毛色が違い過ぎてどうなのよとか色々思うところはあったけれど、過去を生きた女性達の社会的な扱われ方に関しては概ね“こういう時代があった”と受け止めることが出来たんです。

でもルーは現代を生きる女性で、そこにはもっと自由があるはずじゃないのかなと。なんの葛藤もなくその選択をさせてしまって良いのか?子を宿し血を繋ぐことはそんなにも神秘的で尊く絶対的なものなのか?と疑問が湧き上がってきてしまって、これはもはやこの物語における呪縛というよりも作者から女という性に対しての理想の押しつけじゃないかとすら感じてしまいました。

 


私はこの戯曲を書いたムワワド氏とはおそらく信仰も違えば彼のように内戦から亡命してくるような壮絶な経験をしたこともなく、大変有難いことに比較的安全な場所で安穏と生きてきて、結婚は不便なだけだと思っているし自分の遺伝子が入った生命をこの世に産み落とすなんて恐ろしい事は想像するだけで吐き気がすると感じている人間なので、命を繫ぐということに対する価値観が最初から大きく違うんだろうなというのは重々承知しています。

 


それでもルーの選択に強い拒否反応を示してしまったのは、私が彼女の事を気に入り過ぎてしまったからかなと。

お世辞にもキチンとした身なりとは言えない姿と乱暴な物言いの中に、どこか根っこの部分の純粋さと愛情深さが滲んでいるギャップが魅力的で、いつの間にか彼女の事を目で追って応援している自分がいて、途中で「ルーにそんなに色々背負わせないであげてよ!」と憤る程でした。自分の居場所の見つけ方も世界との関わり方もわからず、ただ毒を吐き獣のように周りを威嚇することしかできなかった、彼女の歳の割に未成熟な部分に少しだけ共感を覚えたのもあるかもしれません。

だからこそ、私が嫌だと思っている結婚や出産を容易に受け入れる姿を見るのが嫌だったのだと思います。

自分の腹の中まで覗きこんで少々感情的になってしまいましたが、これはあくまで私が勝手に思っただけでルーはあの結末で良かったのかもしれないし、良かれと思って自分の理想を押し付けた結果相手を苦しめる様子は劇中でも幾度も描かれていたのに、まさに自分もそれをルーにやっていないか?と不安になって来てしまいました。だから一旦この話は終わり。

 

 


ルーとダグラスの着地点に限らず、二度目の観劇時のほうが観ていてしんどいなと感じる場面が多かったんですよね。

続けて観ることで話がより深く理解できるようになったからなのかと思ったんですが、それに加えて遠い席から俯瞰で見ることによって、こちらの心を感動に導いてしまいそうな生身の人間の力強い情動からは距離をおいて、美しい箱庭の中で繰り広げられる継承という名の暴力や戯曲のグロテスクな部分が強調されて見えたのだと思います。

 


特にそう感じたのが、人を疑う事すら知らないような青年だったアルベールが自らが最も嫌悪する権力を振りかざす存在に成り下がってしまったところ。その権力の象徴のような豪奢な父親のコートがボロボロになってもなお纏い続けていた様子もおぞましくて、陰惨な夜の幕開けに大きく映された不気味な影と一緒に印象に残っています。

暴君と化した父親の独り善がりな楽園に閉じ込められて若さを持て余し、外の世界を見て人を愛したいと願ったエドガーの痛烈な叫びにも息苦しくなる場面でした。

エドガーやエドモンの思想からして幼い時にはちゃんと倫理的な教育もしていたようなのに、美しい楽園を夢見た青年は何処へ消えてしまったんでしょうか…

 

 


もともと観ていて辛くなるものには一切触れたくないという質でもないし、場面場面で切り取れば好きなところも沢山ある作品だとは思うんです。

書くタイミングが分からなかったのでここでねじ込むんですが、絶対に交わることの無い時空が一瞬だけリンクした光景が妙に情緒的で、アルベールに拒絶されたアレクサンドルが沈痛な面持ちで歩く雨の中を、傘を差したルーとすれ違って一瞬彼女が心配そうに振り返る場面がとても好きでした。

 


そんなふうに演出と魅力的な登場人物達と圧倒的な演技の凄さに当てられて、「感動した 面白かった」とこの作品を絶賛したくなる気持ちも分かるんです。私も前方で観た時は全てをねじ伏せられてそういう感情に引っ張られそうになりましたし。

でも冷静になればこの戯曲が描いたものは私の思想には合わない気がして、やっぱり手放しでそういった感想は言いたくないなと。

そんなふうに立ち止まって考える力を一瞬でも鈍らせてしまう演劇って、自分が思った以上に威力があって怖いものなんじゃないかなという気がして来て。芸術によって、うっかり思ってもいない方向に扇動される可能性を自覚した作品と言う意味でも、とても印象に残る観劇体験でした。

 

 

 

 

 

 

 


----------------------------------------------

森 フォレ

東京公演

世田谷パブリックシアター

2021/07/06(火) ~ 2021/07/24(土)

https://setagaya-pt.jp/performances/202107mori.html