チラシの裏に書く寝言

強引に こねてまとめて とりあえず焼いた

だからビリーは東京で ー2022年1月21日の客席より

 

大体は当時のメモ。それから朧げな記憶を頼りにした感想。

 

 

 

ビリー・エリオットに憧れて演劇の世界に飛び込んだ青年と、ある劇団の物語”を軽妙な会話で描いた作品。
だけど、皆が認めるわかりやすい特別なんて簡単になれるはずもなく、その焦燥感や足元がぐらつくような不安感は、一度でも何者かになりたいと願ったことのある人には苦しく感じられると思った。

私も主人公の凛太郎と同じぐらいの歳のときにビリー・エリオットを観て、当時はあまり観劇慣れもしていなかったから彼がどれだけ衝撃を受けたかは想像に容易いし、その後のふわふわした高揚のまま行動を起こすのはまるであの時の自分のようでむず痒かった。
演者でこそないけれど“あちら側”の人間になりたい、きらきらした世界を作り出す特別な存在になりたいと憧れていた自分を思い出すのはしんどいものだけれど、この物語のラストはそういう何かを成せなかった事もその時悩んでもがいた事も肯定していいのだと言ってくれたようだった。

 

 

 

劇団や自分達が売れる事を半ば諦めて、とりあえずこのメンバーで芝居ができたらいいやという空気の旗揚げメンバー達と、どうにかして一人前の役者になりたくて泣くほど焦る若手と、何をするのも楽しくて仕方がないと興奮している新人の温度差が実は結構ハッキリ描かれているのはなかなかに残酷だった。
凛太郎が入った劇団がもっと体育会系の厳しい所だったなら、彼はこんなに演劇にのめり込んだだろうか。
脚本が書けない能見の気分転換のため団員揃ってのドライブやカラオケ、それから稽古後の飲み会も、サークルのようなわいわいとしたノリでとても楽しそう。だけど観ているこちらからすればその楽しさの中には漠然とした違和感があって、「ここにいても凛太郎は大成しないだろうな」ってひんやりとした気持ちが隅の方に常に張り付いていた。
でも、大学の友達や先輩ぐらいの気安い関係で接してくれてなおかつ“大人”って立場で面倒も見てくれるかなり歳上の人達に囲まれて、特に大変さも感じないまま新しい体験をどんどんしていけるのはさぞ居心地良くて魅力的だったろうなと思うしのぼせ上がってしまうのもわかる。
だからどんどん状況が悪くなって行ってもそれなりにポジティブに演劇と劇団を好きでいられたのかなとも思えて、そういう所じゃなければもしかしたらさっさと辞めていたかもしれなくて、この偶然が幸か不幸かは分からないけれど彼にとって無駄ではなかったと思いたい。

 

加恵が所属することになった事務所から言われた『プロじゃない』という言葉で、違和感が確信に変わった。
脚本が意味わからない、チラシができていない、そんなの悪い影響しかないから離れた方がいいと。脚本の中身はともかく意識の面はド正論。加恵の言い方からして、もっと他人を惹きつけるような作品を良いコンディションで発表している時期もあったはずなのに。客が来ないとか話がつまらないとか以前に、この人たちは自分たち自身にも不誠実になってしまっているのだと思った。

 

能見は自分でも正直何を書いているかわからない状態になっていて、それでもこれしかないからと演劇を手放せなくて、それはきっと他の人も同じだったんじゃないかな。
でもいざ手放してみたら何も無いなりになんとなく過ごせちゃったりするもんなんですよね。それがまた「じゃあなんであんなに頑張ってたんだろう」って気持ちにさせられてしまうから、なんとなく全てに目を逸らしながらも走るしかなかったのだと思う。

 

 

 

凛太郎の父親は元アル中で、経営している居酒屋がコロナで駄目になりかけたせいで心が折れて再びお酒に手をつけ暴力を振るってしまう。
でも世の中が一気に自粛ムードに包まれるまでは、断酒もして真面目に仕事しようとしていて、風俗に連れて行こうとするのは絶対に間違ってるけど一応息子に父親らしい何かをしたいって気持ちもあって、実は母親に頼まれて偵察に来ていただけだった凛太郎に『心配して来てくれてると思ったのに…!』って少なからずショックを受けていたりもして、本来は接近禁止令も出でいるDV野郎のはずなのに微妙に突き放せない感じがあるのがキツかった。多分私が親という存在を完全に否定しきれないのもあると思う。

だけど暴力を奮うのを擁護できるわけはないし、ベッタリと絶対振りほどけない力で纏わりついてきたり何度もチラシの束で叩いてくる酔っ払い特有の緩慢な動きは妙におぞましいものに思えた。
息子という立場といえどもう成人した大人で対抗もできるはずなのに、酒を勧められた凛太郎は『呑んだら自分も同じようになるかもしれない』と無力な子供のように泣きながら必死に拒否していて、今まで受けた傷が垣間見えるようで目を背けたくなる場面だった。
ずっと両親が離婚するようにこっそりと手を回していたのに、それがバレた上に実は母親が父親と会っていてお店の給付金申請の手伝いまでしてたと知ったらもう目の前が真っ暗になるしか無いと思う。
母親にも考えがあって父親に協力していたのだろうけど、自分がお酒を呑むことにすらあれだけ怯えているのを見るに凛太郎は父親に会うこと自体実はかなり辛かったのかなと思えて、そこまでしてこの仕打ちを喰らうのはかなり辛い。

 

『僕がビリーに憧れたのは、彼が父親を変えたから』
作品の何にそんなに心を打たれたかって、観劇してその場ですぐ気がつくものでもないと思うけど、入団のオーディションですら誰でも言えるような薄っぺらな内容しか出てこなかった凛太郎の本当の気持ちがこんなやり取りの後に明確になるのは余りにも皮肉だなと思った。
才能と情熱で周りの人々の心を動かしていったビリーと、上手くいかないどころかなんなら父親との関係を悪化させてしまった自分を比べる必要も、できなかったからって責める事もしなくていいはずなのに、「ビリーはできたのに...」ってやるせなくなってしまう気持ち、わかる。苦しいよなぁ。
どうして人は物語の人物と自分を重ねてしまうのだろうか。そんな風にはなれやしないのに。

 

 

 

真美子と乃莉美の奇妙な関係が好きだった。
劇団を作るキッカケになった2人で、実家が隣同士でまみのりって言われるぐらいにずっと一緒にいて、でもお互いのことが大嫌い。
乃莉美は自分の意思をなかなか行動に移せない人で、それを見て真美子は自分が導いてあげなきゃと彼女の一歩前に立って物怖じせずにずんずん突き進んで行くのだけど、それは乃莉美からしたら『昔からずっと私のやりたい事を横取りしてきた』と映る訳で、真美子も『何で私がここまでしないといけないの?』って焦れったく感じている。
でも真美子には友人の手助けをしてあげてるって優越感もあったと思うし、本人は無意識だろうけど彼女のポリシーである『自分で選ぶこと』は全部自分で決めているようでいて、乃莉美が最初に興味や関心を持ったものっていうキッカケありきなんだよね。
乃莉美も真美子の行動を疎ましく思いつつも、常に我が物顔に振る舞える奔放さやその行動力に憧れを抱いていたのかなとか。そもそも彼女は真美子って名前すらも自分のものと比べて羨ましがるほどだったし。
そんなこじれにこじれた面倒くさい感情を抱きながらも何十年も一緒にいたの、どんなに嫌いでもそれ以上にお互いが特別だったんだろうなって。

 

元々乃莉美が好意を寄せていたけれど痺れを切らした真美子に横取りされてしまった男、長井は収入が安定したから全部やり直したいと真美子に別れを切り出す。
それなりに長く付き合って、生活も支えてもらっていたのに今までの借金返すから別れてくれなんて切り出すのは非常に自分勝手な言い分だし結論出す前に話し合えやとは思うけど、『真美子は本当に“俺”と結婚したいの?』っていうのはなかなか痛いところを突いていた。
真美子は長井のことを嫌いじゃなかったし情もあるけれど、結婚したかったのは社会的な事とか乃莉美の好きな男を奪ったから意地でも別れられないとかそういう理由だったし。
結局間に長井を挟んでも“まみのり”って結びつきの方が強かったんだと思う。

 

 

 

コロナ真っ只中、公演を打つかどうかのリモート会議で『やりたい』と『今じゃない』で意見が分断していたけれど、このやりたいは人前での公演以前に、みんなと会いたいっていうのもあったのかなと。完全リモートワークで一人暮らしだと誰かと直接会って話すってあまりなかっただろうし、反対に『人を巻き込んで責任取れるのか?』って主張する側は出社してたりおそらくだけど同棲してたりしたから孤独はそこまで身近なものではなかったと思う。
その分感染するリスクや不安を常にその身で感じていただろうし、何かあったときに周りから白い目でみられるって危機感にも常に晒されていて、そういう置かれた状況によってズレてしまった価値観が炙り出されてたと思う。

 

『勝手に手挙げて、やりますって言って、お客さん巻き込んでたじゃん』
話の流れとは違う受け取り方をした気もしなくはないけど、この台詞が脳内で繰り返されるたびにボディーブローのように効いてくる。
確かに創作って一方的な物だよねって。誰かに求められたわけでもなくただただお金と時間を無駄にして勝手にゴミを量産して、なんて不毛なことをしているんだろうって、悲劇のヒロインの如く悲観的になっていた自分を思い出してしまう。

 

 

 

劇団の解散騒ぎでしっちゃかめっちゃかな中、凛太郎が突然歌い出したElectricityに団員は困惑、突拍子もない行動がウケたのか客席からはクスクスと声が漏れていたけれど私は全然笑えなかった。それどころか訳も分からず泣きそうになってめちゃくちゃ我慢してた。
凛太郎の歌は確かにぐしゃぐしゃで滑稽だったけどどこまでも誠実で、歌詞自体よりもビリーがオーディションで自分を思い切り解放させたイメージと重ねて、今にも爆発しそうな気持ちをどうにかしたかったんじゃないかと。

 

もうちょっと前の場面で、真っ赤な照明のついたカラオケで地団駄を踏み始めた時もAngry Danceが始まりそうな気迫があって(実際歌ったのはKAT-TUNのReal faceだったけど、それだけでも十分彼の心境が伝わるものだったし世代が近いからこのチョイスにもうわぁぁってなった)ここでも口には出していなかったけどビリーの状況と自分を重ねていたのだろうし、凛太郎の中でのビリーって憧れでもあり自分の衝動的な感情を形にしてくれる存在でもあったのかなと思った。

 

技術的な知識がないので上手く言えないけれど、この作品の照明は単に場を照らすだけでなくそれ自体に量感があるように感じた。
一人きりのカラオケボックスも、材木置き場にある稽古場も、人通りの多い街中も、よくわからないラジオの中の空間も、どの場面も絶妙な色合いで現されていて綺麗だったし、光の力で空間そのものがパッと浮かび上がるようだった。

 

 

 

結局劇団は解散することになったけれど、その前に描きたいことができたという能見。
一度も舞台に立てなかった凛太郎と、客も入れずこの稽古場で、なんでもない自分たちの為の話をやりたいと。
そうして冒頭の凛太郎のオーディションの場面へ。顔をぐしゃぐしゃにしながらどうにかつっかえつっかえ志望理由を語る凛太郎の様子に、たかだか1時間ちょいしか観ていないはずの彼らの今までが溢れかえってきて胸がギュッとなった。他の劇団員たちの顔は見えなかったけど、きっと優しく彼のことを見守っていたんじゃないかなと。
稽古場に差し込む夕暮れの光が長い影を落とし、ゆっくりと暗くなっていく様子は劇団の終わりを示しているかのようなのにそのオレンジ色はとても暖かく感じた。
沈んだ日がまた昇るようにそれぞれの形でなんでもない彼らの物語はまた開かれていって、それでも前よりは少しだけ自分たちの今までを受け入れて生きてゆけるんだろうなと思ったし、私もそうでありたい。

 

 

 

 

 

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だからビリーは東京で
東京芸術劇場 シアターイース

2022年01月08日 (土) ~01月30日 (日)

モダンスイマーズ - NEXTSTAGE「だからビリーは東京で」