チラシの裏に書く寝言

強引に こねてまとめて とりあえず焼いた

スウィーニー・トッド ー3月23日の客席より

 

 

 

観終わったあと、なんだかすごく悪趣味なものを観てしまったな…と少し具合が悪くなってしまいました。
スプラッターカニバリズム耐性はそれなりにある方だと思うし、自分が犠牲になった事すら気づかないくらいのスピード感で事切れる人が多く「お!あんまりサクサク人が殺されるとギャグっぽく感じてしまうんだな!」とか「あの役者さん首切られて痙攣するのうまいな!」とか「これが噂のミンチマシーンですね!!でっか!!」ぐらいの気持ちだったので、どちらかといえば人間の欲望のグロテスクさに当てられたのかなと。
生や性への力強くどぎつい執着を誰もが己に忠実に抱え、相手の目なんて一切見ないまま投げつけたような感情の飛び交かう様が醜悪さをもって描かれているのはあまり楽しいとは言い難かったのですが、こういう日常とは違うタイプの負のエネルギーをドカンと浴びる事ができるのも観劇の醍醐味だなと思います。
 

 


もしかしたらこの作品の本質はそこではないのかもしれませんが、復讐劇としては随分とあっさりだったなと感じました。
細かい心情の移り変わりよりも物語の衝撃性がガツンとくる作品で、さらに後半の展開が畳み掛けるような目まぐるしさだったこともあり、トッドがビードルやターピンを手に掛けた後そこまで達成感に浸っていた印象が残っていないんですよね。それに、自分がいつぞやに陥れられた男であると告白したのと剃刀で切りつけるのがほぼ同時だったので、相手のリアクションとか苦しむ姿とかもっと見なくていいのか!?私が同じ状況なら反撃できない状態にして一週間くらいは懺悔させ続けるのに!!絶望させる時間も与えないなんて逆に優しいのでは!?とすら思いました。

 

一途な愛を歌うラヴェットも無邪気に頼ってくるアンソニーも結局ひとつも信用していなくて、唯一『友』と呼んだのは愛用する剃刀だけ。そんな孤独と陰気さに包まれたトッドだけれど、ラヴェットの協力がなければ早い段階で捕まってしまっていたような気がします。
15年も憎悪を煮詰めていたわりに行動が行き当たりばったりで感情に任せることも多く、自慢の剃刀だって、そんな特徴的なもの見せびらかして大丈夫なのかしらと内心ハラハラしていたらやっぱりピレリに気づかれてしまいましたし。一度復讐が失敗した時も次の手が『ひたすら殺して腕を磨いてチャンスを待つ!』だったり、ジョアンナとの再会もすっかり諦めて別の人生を送ろうみたいなこと歌ってたり。(諦めんなよ)

全体的にやり方が愚直なんですよね。でもそういう狡猾になり切れていない所や、ほのめかされた“肉”の活用方法にハッとして善良な市民の如く手で口を覆って大きく目を見開いていてしまうような人間っぽさが残っている所に冷酷な復讐マシーン以外の姿を感じて、トッドの辿った結末をただの自業自得としてだけ見るのではなく、「もっと早くルーシーに気付けていれば結果は違ったのかな」とか「復讐して少しは救いを感じることができたのかな」とか色々と慮ってしまい余計に後味が悪く感じたのだと思います。
カーテンコールでも市村さんは大竹さんを剃刀で切りつけるフリをするお茶目な一面を見せていて(それに『やられた〜』って顔で応える大竹さんもキュートでしたね)トッドのどこか憎めない雰囲気は市村さん自身の気質から来ている部分もあるのかなと思いました。時折コミカルさ覗かせつつも、憎しみを爆発させた歌声は低く唸るような圧で場を圧倒させていて、この深みのある迫力には息を呑むばかりでした。

 

 

 

ロンドン一不味いパイ屋が『こんなに旨いパイは初めて!』と飛ぶように売れるお店になったのは、単に中身の“肉”の種類が変わったからか、“肉”のアレコレを誤魔化すためにどうにか色々と改良したのか、それとももっと別の理由で、愛する人に協力したいラヴェットの乙女心が自然と腕を上げさせたのでしょうか。
お金ができて着飾った姿はお世辞にも洗練されているとは言い難く、人の心がないようなブラックなジョークを吐き(ジョアンナの“首ごと”貰えるかもよって、トッドが喜ばないのをわかっててどんな心境で言ったんでしょう?)、常にちょっとくたびれているいかにもな場末の女主人感と、少しの悪意も躊躇いもないままその手を真っ赤に染めることが出来てしまう無邪気さや少女のような恋心を同居させているラヴェット。
絶対的な優先順位がトッドなだけで、きっと彼女の中ではトバイアスを慈しむ気持ちも邪魔になりそうなら簡単に始末しようとする気持ちも全て矛盾なく成立しているんでしょうね。あわよくば…って打算がありつつ、ルーシーの真実を告げたらトッドがショックを受けると思って黙っていたのもたぶん本当。ルーシーの亡骸を打ち捨てて『死んでしまったものは仕方がない!』と高らかに宣言しラヴェットの手を取ったトッドの、歪なワルツの軌道が開け放たれたオーブンに向かっていくのが二階席からはとてもよく見えて「ああ…」となってしまったんですが、燃え盛る炎の中に投げ込まれるまで彼女は“ようやく自分を選んでくれた!”と思っていたんじゃないでしょうか。
店に入り込もうとする乞食女を冷たく罵った口で、海辺で愛に溢れてのんびり暮らす夢を歌い、どう頑張って解釈しても空虚でしかない『愛してる』にも素直な喜びを見せてしまうような、どこまでも狡くて愚かで愛らしい人物像は大竹さんの朗らかなお芝居とチャーミングさだこそ生み出せるバランスだったんじゃないかなと思いました。

 

 

 

登場人物のほぼ全てが他者への愛と見せかけた一方通行の自己愛ばかりを抱いている中で、トバイアスがラヴェットに抱いた愛はもっと見返りを求めない純粋なものに思えました。
散々穢い物事を見てきた自覚のある虐げられて生きてきた少年が自分に親切に接してくれた大人を素直に慕って、与えられた優しさをかえそうとするいじらしさを持ったままでいられるのは芯の強さがないとできないことかと。不器用ながらに、誠実に、貴方を守りたいんだと伝える姿はこの作品を唯一暖かく照らす柔らかな灯火のようでもありました。
だからこそ地下室にとじこめられて半泣きでドアを叩いている様子にはラヴェットの無情さが際立っていたなと。事前にこの日のキャストが武田さんだと認識していた筈なのに、なかなかトバイアス=武田真治が頭の中で理解できませんでした。遠目だったのもあるけれど、そこに立っていたのは紛れもなく小柄で身体的に弱々しく庇護が必要な少年でしかなかったので。−40歳くらい年齢移動させてません?そして普段のムキムキは一体何処へ…?
そしてこの少年の役を大人の男性が演じることで、ラヴェットに対する思慕にそれ以上の気持ちは無いはずなのに、もう一歩踏み込んだらまた形が変わってしまうようなギリギリの危うさがあるのが印象的でした。
ラストでトッドを手に掛けてしまったのは、それ以前に受けたショックが大きすぎてそもそも自分が何をしているか分かっていなかったのかなと。逃げ込んだ下水道から戻ってきたとき髪の毛が真っ白になっているように見えたのと、ふわふわとした口調からもう彼の目にはなにか非現実的な世界が映ってしまっているようでした。ゆっくりと3回、最後の最後に機械を動かして肉を引いたのはなんでだろうと疑問だったのですが、ふと、あれって直近で一番楽しかった記憶にもう一度触れたかったのかなという気がしてきて切なかったです。


 


“女の子の可憐な見た目”にノックアウトされたアンソニーと“目の前の男の子が自分を連れ出してくれそうな事”に恋したジョアンナはこの先どんなふうに二人で過ごしてゆくのかなと心配になりました。
結婚は気が狂ってないとできないだなんて現代でも言ったりしますが、この二人もまさにそれ。でもそういう「落ち着いて!あなたたち恋に恋すらできていないよ!」と叫びたくなるほどに噛み合っていないまま爆走しているところも含めて若くて眩しいなとも感じてしまいます。
小鳥がピーチクパーチク囀りあっているような賑やかさでタイミング悪く立ったり座ったりのコミカルなすれ違いをみせつつも惹かれ合い、いつターピンが帰ってくるかもわからないまま性急にステップを駆け上がっていくkiss meはラブソングなのにこんなにスリリングでパニックでいいのかと衝撃で、それでいてちゃんと可愛らしさがあるのが面白い曲だなと思いました。

 

嫌な顔ひとつせず乞食女にお金を恵んだかと思えばこともなげに『どこにでもいる頭のおかしいヤツ』呼ばわりするなど、まあそれがあの時代の“善良な普通の人”の感覚なのだろうなと思っていたけれど、だんだんとその善良さに歪みが見えてきてアンソニーもまたこの作品の世界の住人であるということをしっかりと突きつけられたようでした。
トバイアスの事を純粋で柔らかな光と書いたけれど、アンソニーはまた別の純粋さを持っていてそのあり方は対象的に感じました。クリスチャンであるということ以外にバックボーンが多く語られないのもあって、陰鬱な街に飛び込んでなお駆引きも他人を疑うこともせずひたむきに突き進むことができるのは彼自身の信念や船乗り故の世間知らずな無垢さというより、周りが見えないもしくはあえて見ようとしていないからに思えました。そうやって周りを照らす異様なまでの明るさは、彼自身の内側から溢れる若さと相まり強烈に突き刺す光のようで少し怖いぐらい。
ジョアンナの姿を一目見た瞬間、弾かれたように飛び上がって『僕に僕にチャンスをちょうだい!』『目が合うまで部屋に入らないで!!』そう声を張り上げたのは小さな子供がこれほしい!と玩具をねだっているのとさして変わらない気がして、その表層的な面での執着だけで危険を冒してまで彼女のことを助けようとした盲目さにも、あれだけ爽やかで人懐っこい空気感や伸びの良い素直な歌声を持ってしても、情熱的で恋に一途で素敵な人とは手放しで言えない居心地の悪さのようなものを感じました。
山崎さんは根に純粋さのある青年の役がとても良く似合う役者さんだなと感じていて、それは今までも信念だったり未熟さだったりと役によって様々なモノからきていたけれど、真っ直ぐ過ぎるくらいに真っ直ぐな瞳の輝きが狂気的に映るようなかたちの純粋さは初めてみるもので、こういう見せ方もできるのかととても驚きました。

 

『お父様の言いつけに従うのが私の幸せ』そうにっこりほほえみながら、アンソニーが来るのを心待ちにして窓の外を盗み見ていたジョアンナ。こういう嘘がさらりとつけるあたり、外の世界こそ知らなくとも決して無知なだけの少女ではないのだろうなと。
初恋大暴走みたいな勢いでアンソニーと恋に落ちる様子にはちょっと深呼吸してみようか!?と声をかけたくなるんですが、初対面で君を連れ出したいなんて歌われてそれまで硬く訝しげだった表情がパッとほころんだ事自体には、見ず知らずの男の子の夢物語にコロッと落ちた愚かな女の子だとは思わなくて、そうやって人に惹かれるのも彼女なりの本能的な生存戦略だったんじゃないかなと。なんというか、“自由になりたい、生きたい”にかなり貪欲で、生命体としては大正解な強かさをもっている印象でした。そんなジョアンナが精神病院に入れられてからはちょっとした事にも怯えて頭を抱えてしゃがみこんでしまったり、破れかぶれで他人に銃を向けるようになってしまったのはあまりに痛々しくて観ていて辛かったです。
ところで『日曜日に結婚するって約束したのは8年前!』とアンソニーに詰め寄っていたけれど、作中でそこまで時間が経っていたようには感じなかったので単にジョアンナの感覚が狂ってしまっていただけなんでしょうか?一瞬本当に8年も劣悪な環境に閉じ込められていたのかと思ってあまりの話の作りのむごさと彼女の絶望を思ってざぁっと胸が冷たくなったのでせめて前者であれ...と思いました。
アンソニーが『なんでこんなに翼を籠にぶつけているのか』と問うた目を潰された鳥籠の小鳥に、ジョアンナは溢れそうな瞳をさらにまんまるにしながら『どうしてそんなに楽しそうなの?』と歌いかけていたんですよね。そういう感性のどこか危うい面を浮き彫りにしたかのような不安定な音階のソロは流石ソンドハイムというもので素人からしても明らかに難しそうだったけれど、唯月さんの響かせるソプラノはイノセントかつ目の覚めるような美しさで、その気持ちの悪い旋律さえもスッと耳に入るような心地でうっとりしてしまいました。
 

 

 

そもそもターピンがトッドを陥れたのが全ての元凶ですし、赤ん坊の時から面倒をみている少女に欲情し、あまつさえ相手が自分を誘惑しているなんて責任転嫁するのは論外中の論外なんですが、なんとなくターピンのことを完全な悪人として切り捨てられない気持ちがありました。
女の子の扱いが分からなくてビードルのアドバイスを真面目に聞いてみたり、求婚するからとご機嫌になってボンボンボンボン…♪と口遊んでしまうところに観ているこちらとしてはふっと油断してしまうというか、この人ちょっと可愛いところあるじゃん、みたいな。そしてこのボンボン…がまた楽器のような素敵な低音なんですよね。特殊メイクばりに気合いの入った扮装とヨボヨボとした体の運びで見た目はすっかり隠されていますが歌声は流石の上原さんで安心しました。武田さんがー40歳なら上原さんは+35歳くらいの衝撃。
とっくにジョアンナにも手を出しているのかと思いきや一応結婚という手順を踏もうとしていたり、そもそも結婚して守って導くなんていう発想が本気で善意から来ていそうだったり(この、自分が気に入った可愛い子と結婚して守ってあげたいって一方的な考えだけでいえばアンソニーのそれと大差ない気がします。個人的にはどちらも嫌ですが)。
ビードルに入れ知恵されてジョアンナを精神病院に閉じ込めたけれど、あんな場所だと知っていたら別の手段を取っていたんじゃないかな、せめて他の患者と別の部屋を用意させるとか…と思ってしまう程度には、少なくともジョアンナに対してはもう少し人間らしい扱いをする人に思えてしまうんですよ。だから、あの髪が欲しいとカツラ屋に扮したアンソニーが指差した時の院長の『あの子は駄目だ』は、最初は“特別扱いしている子だから髪は切れない”という意味だと思ったのに、全然そうじゃなくて驚いてしまいましたし。
というところまで書いて、ふと、ルーシーの件についてはどう思っていたのだろうと思いました。彼女も服毒後に一度精神病院に入れられたんですよね?記憶が曖昧なんですけど、そもそも病院に入れさせたのは別の人でターピンはルーシーが亡くなったと思っていたとか?
そういったところが見えてこないからターピンに対しての判断がつきかねているというのもあるかも知れません。

 

 

 

どんどん新鮮な“肉”が用意されていく様子には、あんなに沢山人がいなくなったら騒ぎにならないものかとソワソワしていたのですが、それだけ死があっけなくて身近なもので、ちょっとした拍子に行方不明あつかいになってしまうような事も多かったのかなと。私がウワァ…と感じてしまった他者を顧みず己の欲求を満たそうとする図太さも、そこまでしないと平穏な気持ちや幸せを手に入れて生きることができなかったからなのかもしれませんし。
キャラクター自体が善と悪にハッキリとデフォルメされた痛快な残酷劇を想像していたけれど予想外に多面的に人間として描かれていて、誇張された部分はあれど、血の通った彼らがある種の純粋さでもがいて追い求めた結果の先に広がる空虚さや突き放すようなラストの救いの無さはあんまりで、どうにか報われてくれても良かったのに無慈悲…と少し凹みました。
可哀想だから…とか、頑張ったら報酬がないとおかしい!ハッピーエンドしか認めない!とかそういう主義ではないけれど、この結末今観るには重たすぎたかな…となる時はあるじゃないですか。人間なので。
何ヶ月も前からチケットを取っていると当日自分の精神状態がどんなものかなんて予想もつかないので難しいものですね。

 

 

 

 

 

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スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師
東京公演
東京建物Brillia HALL

2024年3月9日(土)~3月30日(土)

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