チラシの裏に書く寝言

強引に こねてまとめて とりあえず焼いた

ともだちが来た ー11月4日と7日の自室より

 

 

 

まだまだ1年以上前に観た演目の感想が続きます。

 

 

その場の空気を感じながら観るのと、決められたカメラワークで画面越しに観るのとではどうしても受け取るものが違ってくると思っていて、今まで一度も劇場で観ていない演目について配信の視聴のみで感想をまとめるつもりはなかったのですが、今回は偶然同じ配役で二回観ることになったのでいつもよりは深く作品に触れられたんじゃないかなと感じて、せっかくだし書いておこうかなと思った次第です。

 

 

 

大学生の“私”と、彼のもとに突如自転車で訪ねて来た、亡くなったはずの“友”が、うだるような暑さと夏休みという緩んだ空気の中でじゃれ合うような会話を繰り広げる二人芝居。


出演者は、稲葉友さん、大鶴佐助さん、泉澤祐希さんの3人。誰と誰が出演するかの日程だけ事前に決まっており、配役は当日観客の目の前で団扇トスで決定。衣装も舞台上のラックに沢山掛かっているものからその場で選んでいました。
他の演目でもたまにあるような、予めスケジュールを決めた上での二役入れ替わりですら大変そうなのに、直前までどちらの役を演じるか決まっていないなんてどんなメンタルをしているんだと役者さんの切り替え能力に感嘆していたら、なんとラストの2公演は更にハード。誰が出演するかすらも団扇トスの運命に任せてしまうという、いつ誰がどのタイミングで千秋楽になるかもわからない非常に緊張感のある挑戦的なスタイルでした。

というわけで、最初に稲葉さんと大鶴さんの出演する配信を観て、他の組み合わせも是非観たい!とスケジュールの合う千秋楽直前の配信を追加したところ、まさかの両方の回で稲葉さんの“友” 大鶴さんの“私”という結果となりました。
それはそれで、こういうやり方だからこその経験で面白いですけどね!

 

 

 

セットは非常にシンプルで、舞台上に何畳かの畳がぽつんと置かれてあるだけだったと思います。
冒頭、唐突にその中心で抽象的な台詞を一人語り続ける私。
『畳のメを見ている、ほこりが…見える。ほこりを食べない蟻……。水の音が聞こえる』頭の中の水音を掻き消すように、虚ろな瞳でガリガリと畳を引っ掻く姿。
ほぼ前情報無しで観たので、いきなりの掌からざらざらと溢れていってしまいそうな言葉の羅列と異様な雰囲気に何やら難解な作品を選んでしまったのかと一瞬動揺していまいましたが、ジットリと纏わりつくような夏の空気を感じさせる大鶴さんのぬめり気を帯びた表情と身のこなしからは只者ではない様子がバンバン伝わってきて、そんな動揺も忘れて彼から一気に目が離せなくなりました。

 

そこへ突然現れた友。室内なのに自転車に乗って、サンダルも履いたままというこれまた異質な姿。それなのに当然のようにそこにいるんです。
稲葉さんの少しトーンの高い声と間延びしたようにふわふわと無邪気な言動には不思議な透明感があって、まるで彼自身も浮遊しているような印象を受けました。
困惑しながらもめいっぱい平静を装う私の姿をよそに噛み合っているのかいないのか分からない受け答えを平然と続け、まるで硝子玉みたいに無感動な瞳で淡々と自らの最後を語る姿は彼自身の元々の性質なのか、肉体から魂が離れたことであんなに飄々とした存在になったのかどちらだったんでしょうか。

そんな風に二人とも少し変わった雰囲気を持っているけれど、交わされるのはごくごく普通の学生のたわいない会話。部活の剣道のこと、高校時代に女の子を部室に連れ込んだ時のこと、実のならない庭の柿の木のこと―。
それなのに、その中に痛々しさの残る生傷のような感情が隠しきれずにちらりと覗く瞬間が幾度もあって、これから先二度と人生が交わる事の無いお互いへの思いをギリギリで抱えている様子にチクリと胸が痛みました。

 

私が頻りにすすめる麦茶に、友は頑なに口をつけなくて、その度に私が代わりに飲んだり頭から被ったり(!?)していて、役者さんたちは私役が当たるたびにお腹ちゃぷちゃぷになりそうで大変だなと。
何気なくもてなすように、強要するように、懇願するように、何度曖昧に躱されてもそうやって麦茶をすすめ続けたのは、一口でもこれを飲んでくれたら友が幽霊じゃないという証拠になるような気がして、その万に一つの可能性に掛けての行動に思えて切なかったです。

 

 

 

何もしないで死んだ。友はそう言ったけれど、生涯で自分の存在をずっと忘れないでいて欲しいと思える友達ができたのは充分大きな事だったんじゃないかなと。
『値うちのない命、だけど俺はここにいたんだなあ。俺は、覚えていてほしいんだよ。おまえに』
絞りだすように叫んだ友の台詞がグサリと突き刺さって、自分はこの世を去る時誰かの記憶に残りたいと思うのか、そんな友達はいるのだろうかという考えが頭をよぎりました。

 

『俺、お前が来てくれてうれしいよ。』私が何度も口にした短いこの言葉からは心の底からそう思っている様子と、とにかくそれだけは伝わって欲しいという気持ちが見えて、その想いの強さに、これは私の願いによって友の幻を見た、若しくはその魂が呼び寄せられた話なのかなという気がしました。
それぐらい私も友の事を代わりのない存在と強く思っているように見えて、そんなふうに他人の心と深く関わったのはきっと何もない人生なんかでなくて誇っていい事で、羨ましいとすら思いました。

 

 

 

二度目に観た回ではふとした時にお互いに向ける表情がより暖かく感じられたからこそ、この穏やかな時間の後に訪れる別れを考えてしまって、記念にと二人で写真を撮る場面に流れる優しく柔らかな空気すらも哀しく思えてしまうほどでした。

 

大鶴さんの私は、友の事を見守るような視線を幾度も向けていて、二人でいる時は少しだけお兄ちゃんみたいなポジションだったのかなと。
稲葉さんの友は、無邪気に振舞っていたと思えば時折艶や憂いを帯びたようになる掴みどころのない危うい魅力はそのままに、前見たときよりも私のことが大好きな感じで、私が自分の事を思ってくれているのをあどけない笑みで純粋に喜んでいる様子が印象に残っています。
そのせいか、最初に観た回とは逆に、友が強く会いたいと願って私の元に現れたように感じました。

 

 


眠りにつく前にふと、明日目が覚めなくてもいいのにと思うことって誰しもあると思うんです。その感情が強いか弱いかの差はあれど、澱のように沈む漠然とした不安に包まれて、その選択の結果どうなるかは分からないけれど、とりあえずこの世界での幕を閉じて何処かへ行きたいと思う時が。

友達をつくったりうまく流れに乗ることが出来ない大学生活の中、友は思い詰めすぎて自ら生きることをやめてしまったというよりは、そんなふうに現状ではない何かを求めてふらりと海に吸い込まれてしまったのかなと。
そうなってからいざ振り返ってみて、自分の人生って何だったのだろうという気持ちが湧いてきたからこそ、せめて私に自分の存在を覚えていて欲しいと願ったのかなという気がしました。

私も友よりは上手く生きているけれどどこか少し特異な感性を持っていそうで、本心からは周りと馴染めてなかったんじゃないかと。
同じ部活の女の子と片っ端から関係を持つのも年頃の男の子の欲求というよりは欠けた部分を無理やり埋めようと躍起になっているように見えて、取り憑かれたように頭に水音が響いていたのも時折ドロリとした病的な目をしていたのも、心の何処かに海に飛び込んだのは自分だったかもしれないという恐れがあるからのように思えました。

 

友が穏やかな口調で言った『ありがとう』には、その場の行為に対しての感謝だけでなくてもっとずっと沢山の思いが含まれているように感じて、それを分かっているからこそ、悲しさを無理やり呑み込みどうにかしてこの現実を受け止めようとする私の表情が印象に残っています。

 

この二人、部室の一件から少し気まずいままでいたところに受験も重なって、お互い心の底では気にかけつつ微妙な距離だったのかなと。それから大学もそれぞれ違って、もとに戻るキッカケがないまま永遠の別れを迎えてしまって。
そうやってどこかしこりを残したままの状態で“ある日突然死んでしまった友”と“葬式で泣くことができなかった私”は、この少しだけ非日常な再会で、ちゃんと区切りをつけてお別れができたような気がします。

 

いつの間にか去ってしまった友と、一人部屋に残された私、それから二人の思い出までも温かく包み込むように物語の終わりに流れたノスタルジックな音楽と夕陽の色合いがとても好きでした。

 

 


この時期にこの戯曲を選んだ意図って何だったのだろうと。
真意はわからないですし、わたしの言葉で書くと 非常に陳腐な感じになってしまうんですけど、なんとなく“会う”とか“口に出して伝える”って事をもっと大事にしていきたいなと感じて、しばらく連絡を取っていなかった知人にメッセージを送りました。
ただフィクションとして眺めて綺麗な感傷に浸るだけでなく、他人との交流が希薄になりかけていた現実に目を向けさせてそっと背中を押してくれる舞台でした。

 

 

 

 


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ともだちが来た
浅草九劇
2021/10/27(火) ~ 2021/11/07(土)

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