チラシの裏に書く寝言

強引に こねてまとめて とりあえず焼いた

ねじまき鳥クロニクル ー11月11日と21日の客席より

 

 

 

元々一度きりの観劇の予定でしたが、終演後には「今すぐにでもまたあの世界にどっぷりと浸かりたい!」という思いが止まらなくなり急遽予定をこじ開けチケットを追加しました。
浮遊感溢れる身体表現と美しくも躍動的な音楽、精巧な仕掛け絵本にありったけの油絵具をぶちまけて造られたような鮮やかで不可思議な空間によって具現化された、人間の意識の底の底にあるような仄暗く混沌とした情景にただただ圧倒され、大人しく座って頭を使いながら舞台を「観た」というより全力で「浴びた」「巻き込まれた」感覚を強く持ちました。

 

原作未読で挑んだことや作品自体が抽象度の高い表現で構築されていたこと、観ながら意味を探るよりもただ目の前にある美しさに溺れたい気持ちが強かった事から、今回は物語や登場人物の心情に関してよりも美術的な感想が多め…だと思います。(専門的な事は何も言えませんが)
といいつつ、どうしても引っかかってしまったこの表現苦手かも…という部分があるので最後の方で少し内容にも触れています。あまりまとまっていませんが、大丈夫そうならどうぞ。

 

 

 

視覚的な面で特に印象に残ったのが舞台上を彩る照明の色合いで、こんなに繊細で有機的な色が表現できるんだと場面が変わるたびにうっとりしていました。
ミニマルな家具と、綿密に組まれた自在に動く壁が中心となってつくられるシンプルな空間にあれだけ自由に様々な場面が現れては消えていったのは、その照明とそこに生まれる影の力も大きかったのかなと。
トオルとクミコが過ごすリビング、壁やドアや時計の幾何学的な線と、素っ気ない灰色の壁に霞がかった紫と青が滲む様子になんとなくパウル・クレーの絵画が浮かんできました。具体的にどの作品って訳ではないんですけど。
ドアと冷蔵庫の色自体が他よりワントーン明るいのかと思ったら、その場所へ重ねるように照明が当てられていることに気づいて、あんなにピンポイントで鋭利に照らせるんだ。というのもおどろきでした。
トオルとノボルが待ち合わせをしたオークションの場面の赤とオレンジも、一口だけ齧ったプラムみたいで美味しそうだな...と思いながら眺めていました。

 

間宮が戦争の惨劇を語る場面は逆にそれらの色合いを大胆に潰してしまっていて、それもまた面白いなと。
暗闇や影が主体と言いますか「スポットライトなどで照らされてポイント的に光が現れる」のではなく「舞台がざっくり切り取られ僅かに残ったもの」として照明を認識するのは珍しい気がしました。
天井高く吊るされたペンダントライトが舞台上の人々によってあちらこちらと揺らされるたびに大部分が蠢く暗闇に包まれ、残った光にも亡霊のように現れた軍服姿の男達の影が不気味な影を映し出す。その心許無さはまさしく間宮の孤独で先の見えない任務そのもののようで、芝居や“特に踊る”方々のダンスと同じぐらい雄弁に残酷な情景を描いていたと思います。

 

たくさんの“クミコとクレタたち”のダンスから流れるように繋がるこの場面、音楽も間宮の登場まで一続きになっていて、最初は彼女たちと一緒に揺れたくなる曲だなという印象の方が強かったのですが、彼の過去を知った二度目の観劇時にはなんだか軍隊の行進曲のようにも聴こえました。

 

手書きのショートアニメのような奇妙でぬるぬるとした表現が生身の人間によって行われていたのも観ていて非常に楽しかったです。
二人のトオルの独白。クミコへの疑惑を危機感の欠片もないままにぐるぐるぼそぼそと言葉にするその熱量の低さとは裏腹に動きはみるからにハードで、絡み合うように持ち上げられながらじわりと回転したりナメクジの交尾みたい...とか思ってしまったけれど、彼らは元々同一の個体なので官能的な雰囲気がある訳でもなく。ただ淡々と、異常すぎる普通の状態で平然と台詞が口から流れていき、こういう日常の中に突然現実離れした浮遊感や不安を感じることって映像で特殊な処理をしなくてもできるんだ!と思いました。
クレタが病的に痛みに過敏だった過去を歌う場面でソファの隙間からずるりずるりと出てくる人、人、人。クレタを痛みとともに覆い尽くすように蠢く人々のその現れ方も、もしここから何か出てきたら?という想像はするけれど普通なら絶対あり得ないことが具現化されていてぞわぞわしました。

 

トオルとメイがプールサイドにちょこんと腰かけて会話を交わす場面、塩素の匂いのしそうな静かで青い空間に、水圧を感じながらゆったりと漂う人たちの水着と水泳帽の赤が可愛らしい差し色になっていて、そのままポストカードにして手元に置いておきたかったです。
マルタとトオルが初めて会った場面も、余白をたっぷり取ったなか上方に唐突にくり抜かれた壁の向こうでじっとお茶をする二人と、その手前でお洒落な音楽に合わせてエアー犬(?)の散歩をするハットとコート姿のちょっと怪しい人たちのダンスが繰り広げられるシュールな絵面が好きでした。
最初は散歩だと気づかなかったのですが、そう言われてからみると確かに犬同士がお近づきになってる時の待機してる飼い主たちみたいな振りなんかもあったり、ドアを開けたら木枯らしが吹き付け犬が宙を舞って飛ばされそうになってしまったり「ナニかいる」量感がありましたね。
次々とプールで泳いでは上がっていく人たちも強風の中犬と一緒に出かける人たちも、描写しなくても成立する情景ではあるけれど、そこをしっかりと作り込んで前面に持ってきているところが贅沢だなと思いました。

 

ナツメグ、シナモンの親子が登場する場面も好きでした。
謎がどんどん絡まっていき、不可思議な闇にでも取り込まれてしまいそうなじりじりとした緊張感漂う世界で、あの黄緑色の石を透かしてみたような静謐なホテルの中…というかもっと限定してこの親子の周りだけは、もうひとつ奥の階層の柔らかい殻のなかにあるようだったなと。
ナツメグの言葉には強い感情がこもっていても常に奥に慈しむような包容力が感じられて、シナモンもそれに応えているように感じられたからでしょうか。
あの謎の大きな生き物!(どうやらヘラジカがモチーフらしいですね)穏やかなのにどこか艶かしくて人工物のような気配もある不思議な手触りがツボで、ゆったりと奥から歩いて来た時点でなんか好きなの来た!とガン見してしまったんですけど、ふと振り返って目の前に見慣れない生物を認め訝しげに目を見開いたシナモンをみてそりゃそうなるよね…と。でもその後ナツメグが動じておらずむしろ促すような笑みを向けたことを確認し恐る恐るヘラジカに手を伸ばす様子に、他の登場人物にはない優しい手触りの関係性を見た気がします。
哀しい物語のはずなのに、銀粉蝶さん演じるナツメグの歌声は力強い太陽の匂いがするようでした。

 

そう、この作品、“演じる・歌う・踊る”方々の声も世界観を表すのに重要視されていた気がします。
特に現実世界のトオルを演じる渡辺さんのハスキーな歌声が鮮烈で、彼が歌うとザーッと空気が変わって楽曲の音も相まり土砂降りの雨の中にいるような感覚でした。この作品の一部として成立しているはずなのにちょっとだけ毛色が違う雰囲気が、個性的な登場人物たちの中で、普通っぽさや能動的でない姿勢を持つゆえに逆に浮いていたトオルの異物感を際立たせているようでとても良かったです。
他にも、突如現れては消えていく顔のない男を演じた松岡さんの、掴みどころの無い煙のように揺らめく深い声や、無邪気な愛らしさを持ったメイを演じる門脇さんのコロコロと転がるような声、無自覚なのかピンと張り詰めた音で観ているこちらにまで焦燥感を覚えさせるようなクミコを演じた成田さんの、その緊張感とは相反するどこか幼い響きを残す声が印象的でした。

 

 

 

2度観ても、視覚的に美しくて音楽も綺麗でわくわくするような感動が薄れる事はなかったのですが、少し物語を追う余裕ができた分、結局この話は暴力を暴力で制圧したけれどそこに解決はあったのだろうか…?という疑問が湧き上がりました。
その理性も何も無くなってしまったようなめっためたの暴力を振るったのは精神的な存在の方のトオルで、彼は2幕で物事に対してやや自発的に向かっていっていたけれど、肝心の現実を生きるトオルは終止安全な場所でふわふわしていたらいつの間にか問題が終結してしまいました。めでたし。と、取れなくもないんじゃないのかなとか。
結局は一人の人間の筈ですし、たしかナツメグが、ここにいたら戻れなくなってしまうといったような事を忠告していたので、精神的な方がリスクを負う=現実の方もダメージを覚悟していたのかもしれないけれどそこまではっきりとは描いていなかったと思いますし。
そして現実世界で理不尽と戦ったクミコだけが法で裁かれてしまうのか…と。その顛末と彼女が塀の向こうに行ってでも静かに暮らしたい旨を、トオルが自分に懐いている少女にやたら親密な距離感をもって呑気に報告するのも腑に落ちないなと感じるところでした。

 

メイという女の子は、あの世界で現実を生きている存在の筈なのに誰よりも作り物な感じがしたんですよね。
どの場面をみてもびっくりするほど魅力的だったけれど、16歳よりももっと無防備に、冴えないトオルの元へ何故か子猫のようにするりと擦り寄って来たと思えば突然艶を帯びて低く潜めたミステリアスな声音と表情を見せてみたり、鬼の如く烈火の激情を迸らせたり、氷のような大人の女性の冷たさで突き放したり、また無邪気な少女に戻って澄みきった甘い手紙を送ってみたりとあまりも様々な顔を持ち合わせ過ぎていて、なんだか都合のいい幻想のようにも思えました。

 

たぶんこの辺は原作の価値観なのかなとも思うのですが、理不尽や暴力を表現する為に女性に性的な暴行を加えたり何かの比喩や儀式めかしたモノとしての性を描写するのに、作品の根底に女性が貞淑でないのは悪であるかのような空気が横たわっている気がして、そのうえ理想化した女性像までうっすらと透けてみえて、おまけに主人公は常に眠たげでぼんやりとただ流されたあげく振るった暴力は彼自身になんの影響も及ぼしていないように見える。これらを全てぐちゃぐちゃと混ぜ合わせた時の違和感を上手く表現できないのですが、なんだか飲みこみきれない具合の悪さのようなものを感じてしまいました。
ただ“彼女たち”という記号で呼びながらも体の性には拘らず“特に踊る”方々が出てきてガンガン踊っていたりして、文字情報だけだともっと拒否感が出てしまいそうな要素を視覚的な演出でできるだけ柔らかくみせようとする意図はあったのかなとか。
そして村上春樹氏のねじまき鳥クロニクルという原作だからこそ、この幻想的で素晴らしい舞台作品が生まれたとも思っているので複雑な心境でした。

 

クレタの「壊される」場面も、官能と暴力が綯い交ぜになった狂気的なダンスの迫力に圧倒され、台詞ではなくサックスの音色を金切り声のように鋭く響かせる演出に唸ると同時にちょっとしんどいな…と感じている自分もいて、それらの事を踏まえるといくら絵面が綺麗だからといって人に全力で勧めるのはやっぱり憚られるのかなと。
この作品を観て、そこまで過剰に反応するほどではないと感じる人も沢山いると思うんです。残虐な内容=美しくないという話でも無いですし。
でもおそらく私の中に何か許容できないラインがあって、芸術的な作品だからOKだと片付けたくなかったのだと思います。まだその曖昧な形をしっかりと見極められてはいないですし、だんだん芸術って何?みたいな話になりそうなのでこの辺で終わりにしますが。

 

目を見張るような美しさに見惚れていたはずなのに、いつの間にか普段意識していない自分の中の価値観を眼前にズルリと引き摺り出されて、呆然と見つめているような作品でした。

 

 

 

 

 

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ねじまき鳥クロニクル
東京公演
東京芸術劇場 プレイハウス

2023/11/07(火) ~ 2023/11/26(日)

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